短歌ヴァーサス 風媒社
カレンダー 執筆者 リンク 各号の紹介 歌集案内

★短歌ヴァーサスは、11号で休刊になりました★
2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
← 2006.6.27
2006.6.28
 
2006.6.29 →


島なおみ

 
La chevaleresque  貴婦人の乗馬

 小学生のころ音楽教室やバレエ教室が大流行りで、クラスの女子の大半はピアノ派と電子オルガン派、クラシックバレエとモダンバレエ派などに別れて教室に通っていた。わりと硬派だったわたしは、バレエ発表会の衣装が軟弱だと理由で拒否。妹だけが教室に通った。また親が転勤族だったため、ピアノに比べると調律の手間が少なく移動にお金もかからない電子オルガンを習うことになった。
 この連載の表題に使ったブルグミュラー25の(ピアノの)練習曲は、そういうわけでわたし自身は弾いたことがない。同じ社宅に住んでいた同級生や下級生が練習するピアノを毎日聞かされていただけである。ひとりがブルグミュラーを卒業すると、またその下の子たちが弾き始める。そのうち社宅のどこかから訥々とこの最終曲「貴婦人の乗馬」が流れるようになると「ふーん、ようこちゃん、もうすぐブルグミュラー卒業するんだなー」などと、分かるようになった。
 耳から入ってきた情報を、人は意外と忘れない。手紙の文面を正確に思い返せなくても、誰に何と言われたかは割と正確に心に残る。同じ本を何度も読み聞かせられた子供が物語をそらで言えるというのも珍しくない。
 先週、短歌関係の知人3人ばかりを、車で松本市へ迎えにいく機会があった。実はその日のうちにある歌集をもういちど読んでおく必要があったのだが、両手はハンドルでふさがっている。そこで迎えにいった3人の歌人に、まるごと一冊歌集を読んでもらうようお願いした。テキストはこの五月にブックパークから発行された兵庫ユカの『七月の心臓』。第一首目の「オルガンが売られたあとの教会に春は溜まったままなのだろう」から、最終歌の「友だちでいてほしかったあのひとの売り言葉から光がきえる」までを約1時間30分かけ、松本から安房トンネルを抜けて平湯までの夜の道を朗読してもらいながら運転した。
 オーディエンスは自分ひとり。右からは夜の森のざわめき、左側からは助手席の人の歯切れのよい正確な声が、右後方からは深く包むような声が、左後方からは少女とも大人ともつかないささやく声が、全227首をかわるがわる読むのが聞こえる。車は走るライブハウス、と言えばひと昔前のカーオーディオのキャッチフレーズになってしまうが、音響的にも4チャンネルサラウンドスピーカーから、朗読会で鍛えた若手歌人のナマ声が流れるそんな状況だった。
 『七月の心臓』の作品の多くを、わたしは兵庫ユカの他者への不信と諦めの喩として受け取っている。詩の背景にある、淋しさから派生する軽い軽蔑、もどかしさ。嘘が嘘になるずっと以前に、それはきっと嘘、と自己完結ぎみな断罪が繰り返される。正直わたしはその傷に向き合うことができず、ところどころ目をそむけながら読了したのだった。
 だが、朗読してもらう間に耳から入ってくるリズムや音の響きは、意外に優しく心地よいものだった。そこにさらしてある痛々しい感情を自分のもののように自然に受け取るわたしがいた。
 この歌集の音と意味の二重性をいまあらためて体感することの意味は何だろう。わたしは短歌や詩の秘密に近づいているんだろうか。それが何か、まだまとまらないんだけど。(さようなら)

 +25 Easy Etudes, N゜25

 これがどういうことなのかをまとめなさい。
← 2006.6.27
2006.6.28
 
2006.6.29 →