短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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佐藤りえ

 
かまいたち

 引越しの段ボールを作ったり畳んだりしているうちに手がガサガサになってしまった。作業をすると汚れるので、何度も手を洗う。指紋がうすくなった感じがして、ハンドクリームを塗れども塗れども、指先の緊張感はなくならない。
 そうこうして数日たつと、指のあちこち、思わぬところがひりひり痛むようになる。痛いけれど傷がない。血も出ない。手を洗おうと水にさわるたび、タオルで水滴をぬぐうたび、鋭い痛みがある。痛いと思われるあたりをひっぱったりのばしたりしていると、皮がぱくっと動く箇所がようやく見つかる。何かでうすく切った痕だ。それはたいてい不思議な場所についている。人差し指と中指の間とか、薬指の第一関節あたりとか。おおよその原因の見当はついているのに、なんとなく心の中では「かまいたちだ」と反芻する。
 右の腿前面には大きな黒い痣ができていた。何にどうしたかは忘れてしまったが、荷造りの最中、「痛い」と思ったのを覚えている。こぶし大の大きさの痣が、黒から青紫、黄色へと色を変えていく。自分のからだでありながら見ていると少々気持ち悪い。夕食に食べた酢辣味の煮込みやサンジェルマンのパンが、なんらかの過程を経てこの傷を治しているのだろうか。脚の痣はあと三つぐらいある。なんとなく、赤身の肉を食べようか、と思う。
 学校の図書館はたいてい乾燥しきっていて、本を読んでいただけで指のどこかを切ってしまうことがしょっちゅうあった。ハンドクリームの宣伝で、手肌を薄いベールで包みます、と書かれた、オレンジ色の膜をまとった美しい手の写真を見ると、それがとてもいいもののように思えた。クリームをすりこんだ手が発光しているイメージを頭の中に持つ。なにかから身を守る行為とは思えない恍惚感がありはしないか、ハンドクリームを手にすりこむって。このときだけは、気とかハンドパワーとか、ほんとうにあるかもしれないと思う。このときだけは。

  あばらからこぼれ落ちない心臓よピーナッツのみんなは頬杖を
                盛田志保子『木曜日』
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