短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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佐藤りえ

 
ミミとみみみ

 唐突ではあるけれど、「ミミ」ときいてあなたは何を思うだろうか。それが名前であるとしたら、あなたは「ミミ」をどんな存在と感じるだろうか。
 女の子の名前。芸能人の渾名。ペットの名前。いずれにしろ、名前の持ち主の属性は雌雄でいえばおそらく雌で、すこし明るい印象を持つのではないだろうか。片仮名表記から、あるいは正式な名称でない、かりそめのもの、といった見方をされるかもしれない。名前というには苗字もわからないし、同級生にもそういう人はいなかった、等々。
 ここでいいたいのは、仮名の繰り返しがもたらすイメージの異化効果である。「ミミ」が「みみ」だったら、名前という情報がなかったら、壊れたワープロの打ちだした文字と思うか、蝉の断末魔の声と思うか、顔の両側についているものと思うだろうか。

  にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった  加藤治郎

 炊きあがり、まぜかえされた釜飯の中にてんてんとある鶏肉。ヴィジュアルとして「ゑ」の文字がその肉を指し、かつ下の句の「ひどい戦争だった」を受けて、傷ついた兵士をなぞらえることもできる。肝心なのは数である。並んだ「ゑ」の形が、数が、うんざりするほど傷ついた兵士の、炊きあげられた鶏の、嘆きを体現している。

  三月の甘納豆のうふふふふ  坪内稔典

 甘納豆が跳梁跋扈する一連の一句。なにがあやしいのかといえば「うふふふふ」だ。含み笑いを思わせつつ、豆のふっくらとした形状を思わせつつ、四つ並んだ「ふ」に圧倒される。なにがどうした、とねじこませない迫力がある。
 今更言うまでもないが、かように仮名には魔力がひそんでいる。重ねられたそれは、途端に目の前の現実をくにゃんと曲げて見せるのだ。そういえば川上弘美の小説に「アユミミ」という人物が登場した。ひとつ余分な「ミ」が、ただならぬ者であることをよく伝えている。
 ところで、わがやには一匹のピンク色の熊(のぬいぐるみ)がいる。数年前に知己の方からいただいたその熊に私は「みみみ」という名前を授けた。「み」でもなく、「みみ」でもない。それ以外の名前は思いつかなかった。彼(彼女)がそのことをどう思っているのか気になるが、確かめようがない。恨みなど買っていなければいいが。つぶらな瞳を見るたび、そう思う。
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