ラインについて
諸事のあいまをぬって北浦和まで二度足をのばした。埼玉県立近代美術館の『ベン・シャーン展』を見るためである。ドローイングやデッサンを中心に、100点を超える作品が展示されていて、見がいがあった。とりわけドローイングに魅力を感じていたので、じっくり鑑賞できたのがうれしかった。 「まるで震えるようなその線からは、弱く、失われやすいものへの深い愛情が伝わってくるようです」とはリーフレットの紹介の文言である。棘をつぶした鉄条網のようなあの線はたしかに特徴的だけれど、「ふるえているようだ」と感じたことがなかった私は、この表現にいささか立ち止まった。 「ドレフュス事件」「サッコとヴァンゼッティ事件」「第五福竜丸事件」など、社会的なテーマの作品におおく取り組んだことと、描線の形状を結びつけて考えることは、鑑賞としてスタンダードなものなのかもしれない(そうかな?)。しかしそうした考えに私自身は違和感をおぼえる。作品の、ドローイングの前に立つ時、線の持つヴァイタリティにほとんど打ちのめされそうになるからだ。震えるような、といったかすかな感触をそこに見出すのは、鑑賞者の感傷に過ぎないのではないだろうか、などと毒づいてみる。弱気を助け強気を挫くといった心強い方程式に、テーマとタッチを当てはめて考えることは、表現者の本来のタッチを見失うフィルタリングなのではないか。 ベン・シャーンの描線は、モノの輪郭を形作るラインというよりは、領域をわける境界線のように見える。急カーブを描く線にへだてられたそこは鼻であり、葉のように縁取られたそこは眼であり、瓦のような五枚の破片をくっつけたそこは手である。動かしようなくかたどられた領域、文句なく存在する存在を目の当たりにすることができる。善良な物語、善良な精神をのみ見つけ出すことが、美術や文学を享受し創造することの目的ではないと、今はまだ、信じていたいのだ。
キッチンまで續く春泥かくてなほ世界に何を恃まむといふ 塚本邦雄『黄金律』
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