サリン
有難や隣りはサリン作らぬ人 (渡辺隆夫)
地下鉄サリン事件から十一年が過ぎている。たしかにそう言われてみればありがたいことなのかも知れないが、そういうレベルでありがたがらねばならない国なのか日本は、という気分にもなる。と言うか、書いてあることをそのまま真に受ける読解が変なのかも知れない。痛切な諷刺と読んだ方がいいのだろうか。そのあたり、強く惹かれながらも、読んでいて何となく迷うのは、人がいいのか皮肉屋なのか、作者の思惟がどの位相にあるのかがよく見えないからだと思う。 渡辺隆夫の川柳を読んでいると、この、作者の位置を見失うような感覚にしばしば襲われる。はじめは見失う理由がわからずに戸惑ったのだけれど、どうやら読者としてのぼくが、記述の人称に過度にこだわっているからではないかと気づいた。つまり、作者の「思い」=一人称的世界なのか、諷刺=三人称的世界なのか、二項で読み解こうとしていたのだ。けれど、渡辺の作品では、しばしばこの二項を超えた位置から声がひびいているのだった。
怨霊も羅さがす高島屋 人焼かぬ日はありふれた鉄である 夏ばての真綿はらわた打ち直し 税関やあの世で一品この世で一品
いずれも第二句集『都鳥』(葉文館出版)に収められた句である。作品の話者が作者の思惟を適宜反映させている世界はここにはない。作者の思惟の、もっと向こう側にある思惟を掴みとって、その誰のものでもない声をひびかせているらしい。ありがちな誰かの声であろうとすることを捨てた地点で、川柳の現在を問おうとしているのだろうか。
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