短歌ヴァーサス 風媒社
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★短歌ヴァーサスは、11号で休刊になりました★
2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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三宅やよい

 
遠視はつらい病である

 遠視というと遠くがよく見えるのですか?とよく聞かれるが、決してそんないいものではなく昔はそらぁ、検眼表の上から下まで楽々に読めたけど今は老眼が加わってやっかいな目になってしまった。眼鏡もどの距離に合わせるかが微妙で見えすぎるか、ぼやぼやするか、全ての遠近感が狂って見える。
 「小説の自由」保坂和志(新潮社)は久々にずしんときた。「新潮」に連載されていたそうだけど本屋に並んでいる文芸誌は読んだことがないので知らなかった。本を投げ出す見切りがどんどん早くなっているこの頃だけど、これは飽きずに読めそうだ。「私の濃度」「視線の運動」「表現、現前するもの」「私に固有でないものが集まって私になる」目次を羅列するだけで面白そうな予感がする。
 この「私の濃度」という言葉の魅力あること。思わず文章のあちこちを俳句の方法と置き換えて考えてしまう。俳句で「私の濃度」をはかるには、方法のうしろにいる作者と対象との関係の持ち方が一つのヒントになろうか?「作り手の行為として意図的にできる領域が心情化であって感情移入が起こる・起らないは受け手の領域に属する」こんな言い回しを読むと何だかもやもやしたものが開けるような気持ちになる。「作者は文章とそれによって生まれる作品世界にいろいろな介入の仕方が可能なのだ」と、三島や志賀の文章をダシに「私の濃度」を分析しているが、この見方を応用すれば見えにくい俳句の「わたし」の分量を量るのも可能かも。曖昧にぼかされていた「視覚的」「映像」という言葉にもすぱすぱと切れ味のよい刃物で切り捌いてゆくようで、つまんない俳論を読むより刺激的。
 (「わたし」が視線に先行してまったく存在しない視線─)「この視線の運動と私の主体性なり私の意志なりとは、同じ場所を占めることが難しい現象なのだ」ふーん。

  唐辛子筵ひきずる皆をどる  阿波野青畝
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