とくばん
今回のコラムで、ちょうど半分が終ることになる。結構、周りでも読んでくれている方が多く、「今回は面白くなかった」とか「今回はマジメでつまらなかった」とか、とても温かいファンに支えられているのが実感出来る。 さらに先日、岡山の柳人である石部明さんとお話しした時には、「よくあのメンバーの中にいて、あれほどいい加減な文章を書けますね。」と、これ以上ないお褒めのお言葉を頂戴した次第だ。 さらに原稿の送り先である風媒社編集部の林さんも、当初はコメントを返してくれていたが、最近はもうコメントも返す事が出来ないほど、僕のコラムに感極まっていてくれてるみたいだ。作家冥利に尽きる。
「自由に書いていいですよ」
コラムというのもそうだが、川柳をはじめ、表現の世界はいつも「自由」だ。しかし、この「自由」という制限が一番しんどい。なぜなら、その表現(フィクションを含む)におけるセンスや知識などの要素に対し、まったく責任転嫁できないからだ。実社会でもそういうケースが見受けられるので、挙げてみよう。
■ケース1:鳴海理沙(仮名・22才OL)の場合。 「昼、なに食べたい?」 (訳:なに食おっかなぁ。めんどくせーなー考えるの。ま、いっか。 とりあえず、こいつに決めらせたら後々文句言われねーだろ。)
「ん〜、なんでもいいよ、Sinと一緒だったら、ウフ。」 (訳:面倒くさがってんじゃねーよ。何食うかこっちが決めたら、 おごられにくいじゃん。そっちが決めてよ。)
「じゃあ、中華にしよっか。」 (訳:出たよ、「なんでもいい」攻撃。めんどくせーなー。 とりあえず、金ねーし、その辺のラーメン屋にするか。)
「えー、中華かぁ・・・」 (訳:ありえねー。この前も中華つって、コンビニの肉まんだったし。 どうせ、その辺のラーメン屋にでも行くつもりなんでしょ。)
このケースの場合、彼女は、相手に対し「お任せする」という自由を与えたわけではなくて、何をチョイスするかというセンスの善し悪しを試している事にまず気かつかなければならない。そして、「なんでもいい」の後に(私の好きなものだったら)というお題があるということを察しなければいけないのである。 自由というのは、難しいものだ。
ということで、今回は、「秋の100字拡大スペシャル」でお送りしました。 後半もどうぞよろしく。 |