短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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佐藤りえ

 
オトナ字コドモ字

 毎年バースデーカードをやりとりしている友達がいて、今年も誕生日が近づいたので、カードを出した。先の私の誕生日にもカードをもらっていた。届いた封筒をしげしげ見ていたら、なにか感慨深い気持ちになった。その文字はあまりにまぎれなく彼女の文字だなあ、とあらためて思った。
 知り合ってから10年以上見続けている彼女の筆跡は、ほとんど変わっていない。もうあまりに見慣れて、差出人の名を見なくても誰の文字かがわかるほどである。あたりまえなことかもしれないけれど、不思議な気がするのは、年齢につれて文字が変化すると前提的に思っていたからで、つまり子供には子供の文字が、大人には大人の文字があるはずだという、特に深い根拠のない思い込みをけっこう長いこと持っていたからだ。
 子供の時分に目にした、提出した宿題に先生が入れた赤字や、学級だより、家に届く大人あての手紙などは、どれも独特のほっそりした「オトナ字」だったように記憶しているが、それは年月が経つうちに誇張されたイメージの集合体なのかもしれない。確かに、ペン字のお手本のような筆跡の先生が学級担任だったこともあったが、丸文字・猫背の化学教師にお目にかかったこともあった。同僚のたいそう美人な女の子が粘土細工のような文字だったのも印象深い。
 あまのじゃくなもので、「手書きの文字は暖かみがあっていい」などと額面通りに受け取ることはできないが、文字にひとの側面みたいなものがあらわれているのは確かだ。冒頭の友達の文字はやわらかく、彼女の物腰みたいなものを想起させる。別な友達の文字を見ると、なぜだかいつもその人の料理を思い出す。ああ、あれうまかった、と思わせる文字というのはどういうものなのか。おいしそうな文字とでも言おうか。
 そういう自分も子供の頃とあまり変わっていない、小さくてカドが丸く削れたような文字でいる。大きな文字を書くのが苦手なのは、授業中に教科書の端にこそこそ落書きばかりしていたからかもしれない。いまだにメモは紙の端に、極小で走り書きである。読みづらいが、魂百まで、である。
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