短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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若原光彦

 
蝉を踏む

 夕方、近所の郵便ポストに投函を済ませた帰り、庭にセミが落ちているのを見つけた。白けた腹を見せて仰向けに転がっている。しゃがみこんでよく見ると、黒蟻が列をなして集まってきていた。黒い点がせわしなく動いている。
 蟻はセミを食べるのかとふと疑問に思った。セミには糖分などないだろうし、毛虫ほどのタンパク質もないだろう。皮の中に多少の筋肉はあるだろうが、豊富に栄養を蓄えている生き物ではない。
 蟻は一匹ずつ茶色い点をくわえ去っていた。セミの皮や羽根の一部だろう。少しづつ皮を剥ぎ穴を開けてから臓腑へ手を着けるつもりなのか。セミの中身などたかが知れているが、そこがセミの一番おいしい所だとは予測がつく。
 私は蟻がすぐ中身にありつけるよう、セミを踏み砕いてやろうかと考えた。しかしそれはセミに対して残酷ではないか。いや、残酷も糞もない、このセミは死んでいる。蟻に食われようが人に踏まれようが屁でもないだろう。だが……。
 私は迷い、結局セミを踏まなかった。《蟻に媚びるのも馬鹿らしい》と思ったこともあるが、なによりセミの死骸を踏めば出るであろう《メキメキッ》という音や感触、死骸に対する征服感を味わいたくなかった。蟻に親切にして己の優しさに酔おうとしている自分にも腹が立った。

   *

 三時間後の夜更け、ふと思い出し、庭に出てあのセミを探してみた。セミはどこにも見つからなかった。風で飛んだのか、猫やカラスがくわえて行ったのか。門の所にいた母に訊ねてみた。
『この辺にセミが転がってなかった?』
「ああ、そういえばおったね」
『いつ』
「朝。こんなところにかわいいなと思った」
『かわいい? 朝は生きてたの?』
「死んどったけど、かわいいやない。一日で死んじゃうんだから」
 セミの死骸は可愛かっただろうか。夕方に見た光景を思い出そうとしたが、もう記憶は鮮明ではなくなっていた。釈然としない気持ち悪さを感じたが、セミが消え、何かが済んだことの開放感も覚えた。セミは自然に帰った。蟻に食われたのか風にさらわれたのかはわからないが、それは自然なことだった。
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