短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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斉藤斎藤

 
いじめ、どっちでもいい。

 きょうはちょっとすずしい。きのうおとといはすごい暑かった。きのうは蒸し暑かったし、おとといは日ざしがやばかった。暑いと何もかもがもうどうでもいい。
 暑くないと何もかもがどっちでもいいのだけれど、暑いとどうでもいいになる。どうでもいいはよくない。インディアンどうでもよくない。インディアンどっちでもいい。暑い。
 きのうは蒸し暑いのに歌会に行った。歌会とは、短歌をつくる人たちがおのおの短歌を持ち寄って感想を言い合う、電子辞書を買える年収がある人がうらやましい会のことだ。もうほんとうに蒸し暑い中たどり着いて四十分は短歌どうでもよかった。そしてクーラーが効いてくると短歌どっちでもいいになった。つまりふつうに戻ったわけだ。
 「そういう歌は短歌史にのこらない」とか「本物を見失ってはいけない」とか言われると思わず、短歌史にのこらなかろうが本物じゃなかろうがどうでもいいと言い返してしまいがちだがそれは太陽のせいで、ひとしきり涼んでのち考えればそれはふつうにどっちでもいい。本物になりたいとか、のこるかもわからない短歌史にのこりたいとか、その種の動機でがんばれる人はがんばってもらえればいいと思う。でもその種の動機でがんばられた歌はどうにも「ぼくたちって本読んでるよね」という目くばせを発する、二流の本物のような気もする。文学か商業主義かとかいう対立は、偉い人にほめられたいかふつうの人にほめられたいか、未来の他人にほめられたいか現在の他人にほめられたいかの違いでしかない。他人にほめられたい時点でそんな違いはどっちでもいい。
 こういう文章が人の目にふれるとどす黒くなってしまうのはよく知ってるけどでも本コラムはノーギャラだし読者のことは考えず書く。歌が生まれるとき、ごくまれに「ああ、私はほんものだ。私にはその価値がある」と、とうめいにみなぎる瞬間がたしかにある。それがすべてだ。その歌がいかなる他人にどう読まれようが、どっちでもいい。ほめられればくすぐったい、けなされればカチンと来る。それはそうだし、どっちでもいい。
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