絵のない絵本
こんにちは。月はごらんになりましたか。 さておき、私はアンデルセンの『絵のない絵本』が好きで、文庫を四冊持っています。どれも『絵のない絵本』ですが、訳者が違います。第三十夜の最後を並べてみましょう──
たぶん、父親と母親は瓶の中の燃えつくような雫を夢にみていたものでしょう。青白い小さな女の子は目の中の燃えるような雫を夢に見ていました。竪琴は頭のそばに置いてあり、犬は足もとに横たわっていました。──」(矢崎源九郎訳 新潮文庫)
父と母のゆめは、たぶんびんのなかのあついしずくのことではなかったでしょうか。そして青ざめたちいさな女の児は、その目のなかにもえるしずくをゆめ見ていたのでしょう。たて琴はまくらべに、いぬは足もとに横たわっていました』(川崎芳隆訳 角川文庫)
父親と母親は、焼けるような酒のしずくを夢見ており、小さな青白い顔の子供は、焼けるような涙のしずくを夢見ているのでしょう。竪琴は枕もとにあり、足もとには犬がねそべっていました。──」(毛利三彌訳 講談社文庫)
母親と父親はきっと夢に見ていたろう、酒瓶の中の燃える雫を。小さな青白い少女は夢に見た、目の中の燃える涙を。竪琴がかれらの枕もとにあった。犬がかれらの足許にいた。……」(山野辺五十鈴訳 集英社文庫)
──新潮版・角川版の表現から「酒」「涙」を連想するのは難しそうです。「熱い雫」に静かな印象も受けません。むしろ情熱的で力強いものを想像します。 講談社版は文章がスマートで情景も無理なく浮かびますが、毒でも薬でもないような、物足りなさもあります。 集英社版は、ほとんどの人が「読みづらい」と思うでしょう。童話を期待した方には違和感が強そうです。しかし音読するととても映えます。 月は、ある本では淡々と語り、ある本ではウィットを好む紳士であり、またある本では子供に話すみたいに喋る老人であり、別の本では芝居がかった貴族です。物語は同じでも、訳によって全く別人になっています。機会があればぜひ実際に読みくらべてみて下さい。リメイクの功罪と作品の広がりを実感できるでしょう。 それにしても、アンデルセンは原作ではどう書いていたんでしょうね。 |