短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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三宅やよい

 
笑っていいとも

 「ご先祖様は誰?」のコーナーに稲畑廣太郎が出ていたことがあって、高浜虚子の名前も「ホトトギス」も会場にいた観客のみならず、出演者のほとんどが知らなかった。
 「ふーん。そんなものなのか」私だって二十代だったらアニメと音楽に夢中で子規や蕪村の区別すらつかないだろう。
 短歌の斉藤茂吉のポジションが虚子になるだろうか。虚子の人気は若い俳人の間でも高い。ひと昔前と違って、構成的でなく、知的操作の見えない俳句がこの頃の好みではある。わずかな欲望の隙間を縫って量産される商品の洪水を前にいちいち違いを考慮しながら品を選びだす意欲が萎えてしまうように、人の頭や心を通過してものを見せられる鬱陶しさに多くの俳人は疲れているようにも思える。
 虚子の俳句などは豆腐のようなものだから素の味わいを賞味するのにそれなりに俳句のはったりや単調さを通過しないと馴染めないのではないか。何も足さない、何も引かない自然そのもののようで、それでいてほのかに色気もある虚子の俳句がいいと言われると、ホントウか、と突っ込みを入れてみたくもなる。そんなに単純でもないのだろうが際立った俳句の違いは見えにくく、奥へ奥へともぐりこんでゆく。
 「先生、百年後には我々の俳句はいったいどうなるのでしょうか。」
 「再びもとの月並みに帰りますね」
 玉城徹『俳人虚子』(角川書店)に書かれている昭和10年から70年目の秋である。
 解釈や鑑賞が作品に付け加えられる付加価値の部分だとすれば、虚子も廣太郎も知らない外の世界に俳句を持ち出すにはその部分がものを言う。仲立ちになりつつ付加価値をつけるには俳壇に利害関係がなく、文藝一般に通じ、且つ俳句を読む力を持った人間がベスト。大岡信の次の継承者は小林恭二か。なんてね。
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