短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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三宅やよい

 
私と「私達」

 7月の現代俳句協会青年部のシンポジム(http://www.gendaihaiku.gr.jp/intro/part/seinen/benkyo/benkyo76.htm)でパネラーの小山森生さんの「俳句で省略された私はほぼ私達を想定していると思う」という発言に考えさせられることが多かった。俳句の一人称について、基調報告の中での発言の一部なので、そこだけ切り取ってここに持ち出すのは小山さんの意図しないところだろうけど、「私と私達」の言葉は深く心に残った。
 俳句の作品に表現主体の「私」が露出することはまれである。多くの俳句は「私達」のセーフティネットを背後に無責任にぼやいているようにも思える。「私達」とは誰か?
 むかし、先輩達は実存主義ばりの難しい文章に「私達」と必ず「」をつけていた。そのほか既成概念のほとんどに「」をつけるので読み辛くて仕方がなかった。自意識から一歩も外に出られず、観念の袋小路に落ちこんで行く危機感から、他からの読みを待たなければ成立できない俳句の開かれた部分に惹かれたというもっともらしい話もある。しかし、ホントに俳句の通路は他へ開かれているのか。 
 どんなに超結社を標榜していても七人俳人が集まれば七人の俳句観が折り合う地点で自ずから選の基準は作られていく。「私」が「私達」へ広がりを得るかどうか、場の指向をはずしては考えられない。
 主宰の選を受けることでその広げ方を掴むこと。季語を中心に培ってきた世界へムリなく「私」を溶かし込む型を学ぶこと。一番磁場の強いのは結社だと思うが、大なり小なりその磁場が出来上がった句会に出ると最初のうちは珍しがられるかもしれないが、たちまちのうち「私達」の見えない壁を感じることになるだろう。
 俳句への経験が浅く、一見自由に見えるカルチャーやネット俳句はこの磁場が緩いがゆえに「勝手にやれば」と軽視される。言ってみれば俳人の「私達」は正体の知れた俳句世界への信頼であり、その外の世界へはある意味冷淡なのである。
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