外国語
外国語で書かれたテキストを読んで、わからない、と感じるとき、その外国語には習熟しているのに書かれていることがわからないケースとその外国語そのものがわからないケースとでは、当然のことながら状況が違う。前者だと絶望的だが、後者ならば、その外国語を学びさえすればわかる可能性がある。 これは、そのまま短歌や俳句に置き換えて考えることができる。短歌や俳句がわからないとき、日本語で書かれているのにわからない、わかるためには高度な専門知識や特殊な感性が必要なのだろうと考えてしまう人が多いらしいが、短歌も俳句も、日本語に似て非なる短歌の言語や俳句の言語で書かれているだけのことであり、その言語を学べば、一気に視界がひらける可能性は高いのだ。 ところが、入門書はしばしば、この事態をなぜかあきらかにせず、見たまま感じたまま思ったままを書けばいい、という定番の誘い文句で人を誘うだけ誘いこんでおきながら、似て非なる言語の壁をどのように超えるべきなのか、ヒントすら与えてくれない。修辞や語法よりも、表現者としての心のありようを説こうとするのである。 加藤治郎『短歌レトリック入門』が風媒社から刊行されている。この本の大きな柱は修辞であり、もう一つの柱は歌ことばである。従来のタイプの入門書と異質なのは、短歌とは何か、歌人はどうあるべきか、を問う以前に、短歌がどのような言語で書かれているのか、修辞や語法の観点から説きはじめている点だと思う。 入門の名の通り、ビギナーに楽しめる本であるのは言うまでもないけれど、経験を重ねた人にも、いくつかの意外な角度から短歌の風景を見せてくれるはずだ。
|