野外チェス、ことばの領域
相方の仕事に便乗してドイツへ行った。ハイデルベルグというフランクフルトの南に位置する街に辿り着いたのは、冷たい雨のそぼ降る金曜の夜だった。滞在中はずっと雨が降り続け、肌寒いぐらいだった。ハイネックのセーターを一枚買い、その上にGジャンを着てしのいだ。 週末の街は見事にがらんとしていた。日曜はお店が休みになるとは聞いていたが、デパートもレストランもスーパーものきなみ閉まっているのには閉口した。おかげで散歩が異様にはかどった。古城のあるこじんまりとした街並の路地から路地へ、飽きもせず歩き続けた。教会のある広場では、土曜の午前中だけ朝市が行われていた。八百屋やチーズ屋、総菜屋、花屋、パン屋が軒をつらね、お客も店の人もくちぐちに「Morgen」を交わしていた。 次に訪ねたバーデン・バーデンという保養地では、ホテルの近くに広がる公園をぐるぐる歩いた。整備された散歩道に沿って小川が流れ、あたりには常緑樹が繁っている。晴れていたらさぞ気持ちいいだろうなと思いながら歩いて行くと、小川にかかった小さな橋の手前で、野外チェスに興じる数人の男性に気がついた。 かなり小降りになったとはいえ、雨はまだ止んではいない。綺麗に刈り揃えられた芝の片隅の地面に、大理石とみえる材質でしつらえられたボードは、駒があらかた取り尽くされて、王手が間近いと見える。駒はパイロンを一回り大きくしたような、大人の足の付け根あたりまでの高さがある。椅子に座った老紳士が一人、審判らしき壮年ふうの男性が一人、塾考中の(おそらく打ち手の)男性が一人。つごう三人が木立の陰でじっとゲームのなりゆきを見守っているさまは、なにかの儀式のように見えなくもない。写真を撮るのもためらわれ、静かに横を通り過ぎ、橋を渡った。 散歩中の鞄の中に、持参した「塚本邦雄歌集」(短歌研究文庫)をしのばせていた。森に囲まれたその場所に、塚本邦雄がふさわしいような気がしたからだった。実際は寒すぎて、ベンチやオープンカフェで本をひらくことはほとんどなかった。寝しなに読んだ歌は、遠くから聞こえる銅鑼のように、重たいからだの中のことばの領域をゆさぶった。
白地図にまづ梢形の岬描くここにかがやけ父のなきがら 塚本邦雄『睡唄群島』 |