短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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佐藤りえ

 
ことばの結晶

 自分の声が好きな人っているのだろうか。アナウンサーや歌手など、職業的な訓練を経て多くの人に認められた声でなく、自分の生な声のことを。
 幼い頃、ラジオのDJのようなテープを作ったり、詩の朗読を録音したことがあった。単純に耳にしていいと思ったものを真似てみたもので、たぶん、その時はじめて私は自分の声というものを客観的に聞いたのだと思う。それは思っていたより幾分高く、早口で、奇妙に浮かれて聞こえた。普段しゃべっている時に自分が耳にしている、「自分の声」と思われるものとはかなり違うものだった。正直に言ってちょっと「やだな」と思う種類の声だった。
 にも関わらず、小学校の高学年から中学生にかけての数年間を放送委員会に所属してマイクを握り、昼の放送や運動会のアナウンスを進んで行った。自分の声は好きではないけれど、「声を出す」ということについて何らかの関心をずっと持ち続けていた。
 これまでにも機会をいただいて、何度か短歌や詩の朗読を行ってきた。その時々にも、やはり私は自分の発する声が、発するまで思っている「自分の声」とどこか違うように感じている。この違和感は見当違いなのか、練習不足なのか、耳の機構のせいなのか。
 朗読の現場でいつも感じるのは、音として発する声と、自分の中にある(これがたぶん内側の声にあたるものかと思われる)意味のようなもの、骨に対しての肉のようなものがタイミングよく結びついた時に、ことばがころんと放たれる、ということである。「読む」という運動、作業というより、産卵とか結晶とかいうほうが印象としては近い。ころんと放つことが出来たとき、からだの奥からそういうものが出てきたと感じられたとき、「ほんとうに読むことができた」と思えるのである。
 閑話休題。異性のどの部位に魅力を感じるかという傾向に於いて、最後は「声」なんだという話をつい最近なにかの本で読んだ。顔、体格、など年代ごとに求めるものに応じて注目する箇所が変わっていって、最後は「声」に惹かれるようになるのだとか。納得するようなそうでもないような。
 まもなく行われるイベント『紙ピアノの鳴る夕べ pieces of voices*』に出演する。ことばの結晶をころりとこぼすことができたらいいな、と思っている。

 *http://homepage2.nifty.com/paperpiano/
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