基本的生活習慣
脱衣場から妻の声が聞えてくる。風呂に入ろうとする息子を叱っているのである。 「ほれ、この前も言うたやろ。シャツ脱ぐときは、腕から脱ぐん。そしたら、袖が裏がえらへんやろ。」 そうだったのか、と思った。シャツを脱ぐときは、私はまず、シャツの胴の裾の部分を手で掴む。そこから、頭の方へシャツを捲き上げるようにして脱ぐ。そうすると、必ずシャツは裏返ってしまう。 なるほど、妻が言うようにして脱ぐと、確かにシャツは裏返らなくても済む。息子を叱る妻の言葉は、まるで啓示のように神々しく私の耳に届いた。 学校現場でよく使われる言葉に「基本的生活習慣」というのがある。朝きちんと起きるとか、トイレの後に手を洗うといった習慣のことだ。「あいつは忘れ物多いなあ、基本的生活習慣がなってないなあ」などと使う。私は、どうもこの「基本的生活習慣」が、決定的に身についていないらしい。 箸が正しく持てない。林檎がうまく剥けない。整理整頓は大の苦手。さっき使ったものが、まるで神隠しにあったように、すぐどこかに消えてしまう。人生の約3分の1くらいの時間は、探しものに費やしているのではないか、と思う。なんとも情けないことだ。 洗面所からは、また、妻の声が聞えてくる。 「そんなにようけ付けたらあかん。歯磨き粉は、ちょっとでええの。1センチくらい。歯ブラシにべったり付けると、磨くときに、腕にダラッ、って垂れて来るやろ。」 そうか、とまた思った。私は、歯ブラシの毛のあの約3センチほどの平面全体に、べったりと歯磨き粉をつけている。すると、磨くとき、余った泡が腕に垂れてくる。なんだ、たった1センチでよかったのか。 すごいなあ、うちの奥さんは……。なんだか、妻が、全知全能の絶対神のように感じられてきた。
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