磨き砂
かつて台所に磨ぎ砂というものがあった。薄みどり色をした、細かな粒子の砂である。それをタワシにつけて鍋を洗うと、鍋はピカピカになる。まあ、今でいうならクレンザーみたいなものだろう。 私が住んでいた家の台所は、土間になっていた。そこには土で作ったへっつい(竈)があった。流し口の下に古い洗面器が置かれていて、その洗面器に研き砂は入れられていた。 ときどき研き砂を売る行商人がやって来る。四十歳くらいの瘠せた男の人で、いかにも不景気そうだった。子供心にも、何となく可哀想な気がしたことを覚えている。 物音が途絶えた真夏の昼下がり。その男はひんやりした台所の土間に姿を表す。どこか、申し訳なさそうに「おばちゃん、砂、買うたってんか」と声をかける。昼寝をしていた私に添い寝をしていた祖母は、ものうげに上半身を起し「いらん、いらん、まだ売るほどある。今度また買うたるで」と言う。そう言われると、男はすぐさま「そうでっか。ほんなら、また」といって引き下る。 男が去ると、ひんやりとした土間だけが残った。あのおっちゃんは、こんな暑い中、どこへ行くのだろう。砂は売れるんやろか。親方さんに怒られるんと違うやろか……。そんなことをあてどもなく考えた。 柱時計の音が、ボーンとなった。一時半だ。幼かった私は、その音を聞きながら、また眠りに落ちていった。 そんなことを思い出していたら、次のような一首になった。
磨き砂売りの男が土間に来てひつそりと立ち去りし日盛り
あの家はもうない。磨き砂を売り歩いていたおっちゃんも、いつの間にか、いなくなった。 物音の絶えた炎昼の、気だるい時間の手触りだけが、こころのなかに鮮明に残っている。 |