テリトリー(後)
朝、目が覚めて、窓から眺める景色を、ずっと以前から眺めていたようにも思うし、なぜ自分はここにいるんだろうか、と思うこともある。「ここ」に自分はなじんでいるのだろうか。十年も暮らしているように見えると言われることもあれば、何年たっても余所者でしかないと思うこともある。どこへいっても「おじゃまします」と靴を脱いで上がりたくなる。 伊藤比呂美さんの『河原荒草』に、ニール・ヤングの「アウト・オン・ザ・ウィークエンド」を直訳風に訳した箇所がある。 ああー、思うんですけど、私は 何もかも、やめちゃって 中古の軽トラでも買って えるえーまでいこうかな みつけて、一つの場所を 私の居場所と呼べる場所 なおして はじめる まっさらな日を (伊藤比呂美『河原荒草』「歌声」より) このフレーズが妙に好きでしょっちゅう口ずさんでいる。『河原荒草』のなかで<私>は荒れ地の家に帰っていくけれど、母親に連れられ、あらゆる乗り物を乗り継いで、河原と荒れ地を行き来する<私>の軌跡は、二つの地点を縫い合わせる糸のようでもある。テリトリーという時、それは一つの動かない場所、決定的な不動の地点を思うけれど、移動する時間もひっくるめた居場所を求めてうろうろする軌跡そのものを、テリトリーと呼ぶこともできるのかもしれない。タンパク質の液がてらてら光り、やがて固まる、カタツムリの這った跡のように。 私の居場所と呼べる場所が心底欲しいことに変わりはない。見つけられるかなあと鼻歌をうたいながら、ポンコツの軽トラのステアリングを握っているような気持ちでいつづけたらいいのだろうか。川の水面に光る何かを見つけて、吸い寄せられるように進路を変える。欄干に掴まって上背をぴんと伸ばす。こうやってよろよろと寄り道をしながら、またどこかに行くのだろうか。遠いんだか近いんだかわからない、誰かがいて、何かがあるところへ。 |