短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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佐藤りえ

 
悪について

 小説『白夜行』を読んだ。TVドラマも放映されていたようだけど、見ないうちに終ってしまったようなので、そちらのストーリーは知らない。原作は主人公たちの感情がはっきりとは見えないように書き切られていて、救いというものもあまり用意されていない。なんだか腹にずっしり来るものだった。数年前に読んだ『模倣犯』も話の主軸は犯人=悪の存在だった。近々公開される映画『嫌われ松子の一生』も、かいつまんで言えばアンチヒロインの転落人生が話の大筋だ。どの作品、登場人物もたいそう魅力的だ。しかしなにか、親近感とまではいかないけれど、悪のスケールに限界があるように感じる。圧倒的存在感みたいなものを感じたい、とひそかに思う。
 幼い記憶を掘り起こせば、悪い奴がざくざく出てくるのだった。ショッカーや怪人二十面相、シャア少佐、ダースベイダー、宇宙怪獣、アルセーヌ・ルパン。そういう悪い奴らを追いかけ回したり倒したりする正義の側ももちろん存在するけれど、巨悪は魅力的だった。そして悪は最後まで悪だった。徹底した悪い顔の裏側の見えそで見えない「でも、本当はいい人かも…」「本当はこんなことをしたくはないのに…」なんていう匂いを嗅ぎ取ることこそが、愉しみだった。去り行く悪役の背中にふと感じ入ってしまう、悪役は正義の味方より遥かに複雑な味を醸し出す存在だった。
 今、フィクションの中に巨悪は存在するのだろうか。冒頭に揚げた作品はどれも魅力的な悪役の登場するストーリーだけれど、その悪には、かなり現実的な理由付けが施されているように見える。理由があって悪に走る。だからこそ、人物の造形にリアリティを感じる。しかし、リアリティが強ければ強いほど、かつて感じたような「わけのわからぬものの怖さ」からは遠ざかっていくようにも思える。
 現実の世界では巨悪も凶悪もじゃんじゃん登場している。文化人がこぞって「信じられませんね」などとコメントするような事件が起きている。現実がフィクションを追い越しているとは微塵も思わないけれど、巨悪の存在しないある意味「健全」な虚構の世界というのは、それはそれで恐ろしい。
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