藤原の名
藤原の名をもつ悲哀定家にもありや建久十年日暮 (藤原龍一郎)
建久十年=一一九九年は源頼朝の没した年。藤原定家がどんな思いで頼朝の訃報を受けとめたのか、本当のところはわからない。ただ、現代の、それも短歌の視点から眺めたとき、政治よりも和歌に生きたように見えるこの天才が、皇室に次ぐ「藤原の名」をもちながら、自身が政治の中心にはいないという悲哀がわくのを抑え、持ち前の厭世観をより強めたのではないかと推察される。「藤原の名」でつながる一人の現代歌人にとって、それは単なる歴史の一事ではないのだろう。 固有名詞を詠みこんだ歌は、藤原龍一郎の得意とする領域で、多くの佳品があるけれど、なかでも作者名までをも含めて機能するこの一首は出色のものだと思う。現代の固有名詞とほぼ同じ感覚で、古典の世界から一人の歌人が呼び出されている。その軽やかな感じは、ともすれば述志にからんで窮屈になちがちな文学的モチーフを、現代のサラリーマン的感覚によって中和し、過剰にもちあげもせず貶めもせず、実感的に読者に手渡すことに成功しているのではないだろうか。
梅雨闇の日本脱出はかりしを林葉直子倉敷藤花 最終の地下鉄の乗客として東京は誰に見らるる夢か 肉体の内側なれど赤い蔓草が繁りてその草いきれ 傷つかぬ場所に身を置き迸る水道の水だけを見ていた
すべて第六歌集『花束で殴る』(柊書房)からの引用。初代倉敷藤花の一首のように週刊誌ネタを文芸として成立させるものから、隠喩や換喩を駆使して詳述しづらい感覚を呼びよせるものまで文体は幅広い。述志のめだつ歌集ではあるけれど、むしろ志の突出を微妙に抑えたこれらの歌に、藤原龍一郎の力量が遺憾なく発揮されているように感じる。
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