短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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黒瀬珂瀾

 
天使が終る

 「短歌現代」1月号、島田修三氏による「模倣の素地」の前半と後半の落差に驚く。片岡の文章は諾うが、短歌の本歌取りはよいという。本当は、太田水穂と喜多昭夫の作品の類似に関する指摘(「井泉」4号)に言及するための枕で、島田氏は片岡の文章を深く考えなかったかもしれない。だが翌月号にも「小池昌代の作品に剽窃・模倣の疑いが濃い」と丁寧に書く以上(片岡は断言しなかったにも関わらず!)、片岡の文章を無批判に受け入れたということだ。しかし、その翌月号にて、表記の新しさばかりを追究する短歌は目眩しでしかなく、そんな短歌、たとえば斉藤斎藤の歌は無視すればよい、という旨を発言することに矛盾は感じないのだろうか?
 真摯に短歌を憂う島田氏の名を挙げることは正直心苦しい。でも、まあ、そういう文章書いちゃったんだから仕方がない。そこんとこ「島田氏=短歌界」と脳内変換して読んだ方がいいかも。で、なぜこうなるか。これまでも色々述べてきたが畢竟、短歌界が逐語翻訳的な「意味の病」に罹っているからだ。
 ドラマ性がある歌を称揚するのは、「作品の背後に一人の人の―そう、ただ一人だけの人の顔が見える」からではなく、表層的に「意味」が解釈できるからだ。見慣れない表記法を、新奇を追う悪弊とするのは、作品を逐一読み解き「意味」を明確にしなくては受容できないからだ。フラットな口語を幼児的と批判するのは、人生にとって有意義な「意味」を見出せないからだ。そうして、理解の埒外にあるものを外部として排斥する。そう、オタクや宮崎のように。
 だが、斉藤斎藤の歌は奇抜な表記による脅しではない。しんくわの歌はへたれキャラの演出ではない。今橋愛の歌は不思議少女の呟きではない。笹公人の歌はピン芸人のオカルトごっこではない。玲はる名の歌は奇異な表現による目眩しではない。穂村弘の歌は退行化による韜晦ではない。
 それは歌人の内面の「リアル」を一番効果的に表記するために彼らが選択、もしくは授与されたフォーマットだ。その「リアル」とは、ただの「現実感」「人生」ではなく、彼らにとっての「言語化したい」という衝動のことだ。もはや「リアル」とは、可視可触性や、人生経験の蓄積だけではない。世界への不可解な違和、自己存在への葛藤、表記不可能な感情の言語化への衝動と、旧来の「リアル」との間に価値の差はない。
 批判すべきは文体ではなく、その文体が掬い取る「作者と世界の関係性」の描き方である。それが感受出来ないのは単に歌人の感性が摩滅しているからで、磨き直す為には「意味」を逐語的に翻訳する読解法以外の短歌受容もテキストに応じて選択できるよう、読者の「読みの幅」を広げるしかない。その上で、歌人がどう外部の世界や自己の内面と葛藤しているか、それとも失敗しているかを論じればいい。
 先日、日本を代表する詩人に面とむかって、「短歌は死んだって聞いたよ?」と言われた。その時、貴方ならどう答えるのかを聞きたい。ちなみに僕は「はあ・・・・。そうですね・・・」と、呟くのがやっとだった。短歌は言語芸術である。「文字」が指し示す事柄を散文的に読み解こうとしかしないから、思索が言語の表層にまでしか及ばず、文字の深奥に湛えられた詩精神に感応できない。だから、表層しか問題にしていない片岡の文章を目にしたとき、実証的な批判だと思い込む。そして、詩の世界ではただの妄言として全否定することで決着が着きつつある(もう着いたのかな)文章に賛同するような恥をかく。もう「意味」なんてたくさんじゃないか。そう、オレ達はようやく、のぼりはじめたばかりだからな。この、はてしなく遠い男坂ならぬ短歌坂をよ…。
 未 完 





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