枯野
枯野より人の姿のまま帰る (高橋修宏)
人の姿のまま、は、予想と違ったという感じを示唆している。ならばいったい何の姿で帰るのが自然だったのか。こう書かれると、人ならぬ何かの姿へと連想がはたらくけれど、具体的にその何かが見えて来るわけではない。そうなってはならぬものの輪郭か影がぼんやり浮かび、読者である自分の記憶の奥の方へと触手が伸びて、探られたくないものを探られている錯覚をおぼえる。その何かの正体を知りたいような、知るのが怖いような、不思議な句だ。 ところで、俳句でこうして、枯野、と記述されていれば、約束上では冬の句になる。なのに、この句、枯野が一つ前の季として描かれているように読めてしまう。枯野でのなにがしかの体験を経てここへ帰るわけだから、つまり、現在は春、とも読めるのだ。習慣として短歌的な時間の流れを想定して読解しているせいもあろうか。季語があまりに抽象化されてしまうと、文体が少し緩くなるのか。こうした時差の感触は、危うくもあり魅力でもあると思う。
節分の鬼のひとりが見つからぬ 借金の膨らみつづけ百日紅 噴水は水を脱ぎつつ滅びけり 鶏頭の高さに声を忘れけり
引用は第一句集『夷狄』(草子舎)から。付箋をほどこした句の多くには前述した時差の感触があった。一般に俳句が抑えようとする物語的な時間の流れが解放されている。歌人的な好みの問題だろうか。俳句の約束について、あらためていろいろ考えさせられる句集であった。
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