天使が惑う
ブログなんかで偶然短歌を知った人から、「短歌の勉強したいけれど、どうすれば?」という質問を頻繁に受ける。独学ではなかなか難しいので、結社を覗いてみては?と返事をする場合があるが、その時に返ってくる反応で多いのが、「結社って怖そう」。まあね、今どき「結社」なんて言葉、カタギの人生送ってる分にはまず出会わないからね。結社って普通、ショッカーくらいしか思いつかなイィーーッ。もしかしたら、
「私たち会員は、主宰の言われたことは絶対なのです。主宰がネコ耳メイドの少女がいると言えばいる。血の繋がっていないかわいい妹がいると言えばいるのです!」(@古賀亮一『ニニンがシノブ伝』)
くらいに上意下達の世界だと思われてるんじゃないかと。まあ、こんな性的志向の偏った結社はオレ様もいやですが。 歌壇が旧態依然の閉塞した世界であることはその通りだが、ネットで散見する結社批判は、なんだか大いなる幻想というか誤解に捕われたままの放言ばかりのように思える。というか、ただの誤解に縋っているだけなのに、そこにアイデンティティを見出して、ルサンチマンあふれる批判を繰り返すのはもうそろそろいいんじゃない? と思ったりもするわけですよ。ミクシイで歌会やるのもいいけど、その歌、ちょっと外に出してみませんか? 一つの世界と外部の世界との間には容易に埋めがたい溝が常に横たわっているわけで、逆に溝があるから世界が成り立っているという場合だってあるだろう。しかし、考えてみれば、世間にあふれている「誤解」を一つ一つ見ていくという作業は、結局、「自分は世間のからくりを完全に理解しているのだ」という全知感という「誤解」を生み出すだけに過ぎない様な気もする。というか、そもそも世論操作とは、この全知感をくすぐることで人々をミスリーディングすることなのではないだろうか? と考えることすらも「誤解」にまみれていくことだから、もうどうしようもないんでしょうか。 そういう意味では、昨年の「文学界」11月号に掲載された、片岡直子による、「インスピレーションの範囲 小池昌代さんの『創作』をめぐって」という文章は大したもので、そこに見事にやられてしまった歌人が、島田修三である。
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