隠沼
ラグーナともマレとも違ふ大和にはひきこもりとふ隠沼がある ※「隠沼」にルビ「こもりぬ」 (松原未知子)
自身のひきこもり的感覚に自嘲気味なのか、あるいは、社会的現象を揶揄しているのか、そこのところがはっきりしないのは、言葉遊びの感触の強い文体だからだろう。タイやモルディブのリゾートをひきあいに出してのユーモア、隠沼という和歌的な素材の繰り出しは、いずれにせよ、やれやれという諦めの感じを、知のちから、言葉のちからで、明るくひらかれた方向へと解消しているように見える。 松原未知子は、この一首を含む第二歌集『潮だまり』(北冬舎)のあとがきで、言葉遊びへの変わらぬ関心を述べるとともに「言葉には遊ばせる霊力がもともと備はつてゐるのではないだらうか」と言う。それはもちろんその通りだと思うけれど、人に快をもたらすか不快をもたらすかの舵取りの的確さがあればこそ、この霊力も活きるわけで、定型との共存というストイックな選択が、松原の言葉遊びの向こう側に、表現という寄港地を約束しているのだと思う。
扇風機が風を送つてくるやうなしづかな恋の始まりにゐる 真砂なす人のひとりとして見れば蟹歩きの蟹かなしかりけり ※「真砂」にルビ「まさご」 木星はなりそこねたる太陽にあればその縞おそろしきかな いきしちにひみ入江には船泊てむ秋よさらばと想ふかたちに
すべて歌集『潮だまり』の作品。近代以降の短歌の文体は、私をめぐる状況の伝達効率をつねに高めようとして来た。言葉遊び的要素をはらんだ文体は、逆に私をほとんど伝えない。伝えないことによって、言葉が私を求めてざわめきはじめる。無意識の寓意がそこにたちあがり、読者を楽しませてくれたり、ときに悩ませたりもするのだ。 |