短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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若原光彦

 
詩の未来(後編)

 詩の未来を思う時、人は「谷川俊太郎を超えるメジャー作家が誕生しているか」「詩集は売れているか」といったことを考えがちだ。私もよく考える。しかし、いくら考えてもそれはわからない。
 ただ、現在よりは詩が一般に近くなっているだろう、とは感じている。

 ネットや朗読の場で詩に接して、若い詩人の詩集を読んで、駅前でポストカードを売る路上詩人を見て……ふと自分を俯瞰すると《詩の通俗化》という言葉を思い出す。原典は失念したが「大衆受けする作風」を「世間に寄っている」と懸念する言葉であったと記憶している。
 またこの言葉は、現在の若い詩作者全体に当てはまる言葉だとも思っている。現在の若者の詩の多くは、社会性や芸術性を目的に作られていない。好きなバンドに感化されてポエムを書き始めた人もいれば、好みゆえ古風さや過激さを追求している人もいる。多くのケースが近代詩の系譜と関わりなくそれぞれの嗜好や衝動に端を発している。私もそうだ。多くの若者は教科書でしか詩を読んだことがなく、歌詞・ゲーム・マンガ等に影響を受け、好みのアーティストを真似て詩作を始めている。
 そうして音楽などの商業作品を手本として作られた作品は、最初から商業価値や一般受けが深層で意識されている。作者によって意識度やスタンスは違うだろうが、ネットという他者と接触しやすい場では特に、みんなどこか「一般からの評価」を期待しているように私には見えている。
 さらに、朗読表現ではこの傾向は一層シビアに状況化している。一般に配慮したライブができなければ「詩ってむずいね」と冷笑されて終わる。「いかにも詩っぽい表現」よりも「詩を読まない人にも伝わる表現」が要求されており、多くの詩作者が嗜好と一般性の両立を模索している。

 現在、作者と読者の双方が詩に一般性を求めており、詩のイメージは内外からゆっくり変わりつつあるのだと思う。世代が進むにつれて「詩=難しい」ではなくなる・詩と一般の距離は縮まっていくと私は思っている。私は現状に満足などしていないが、未来に絶望もしていない。近代詩の先人達に敬意を持ちつつも、私は《詩の低俗化》を喜ばしく感じている。
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