マッチ棒の去就について
最近、趣味で豆本を作っている。掌にすっぽり納まるぐらいの大きさの本を、普通の本と同じ工程を踏んで手作りしようというものである。付随していろいろな「小さなもの」作りにもいそしんでいる。小さなノートやタロットカードなど、あまり役に立つというわけではないようなものをちまちま生産している。その工程で思わぬ副産物が生まれて、処理に頭を悩ませている。マッチ箱入りのタロットカードを作ったため、箱から取り出したマッチが当て所もなくざらざらと溜まってしまった。小箱10個ぶんのマッチが空いたお菓子の缶に敷き詰められていて、これがまだ増加しそうなのだ。 私自身が喫煙をしないので、日常ではマッチを使う機会がほとんどない。幼い頃は、発火装置のない石油ストーブに、仏壇の蝋燭に、庭のゴミ焼きにと年中活躍して、徳用の四角い箱が台所のどこかに必ずあったものだ。気づいてみればさきにあげたことごとは今ではやらない/できないことばかりだ。石油ストーブも仏壇も今の部屋にはないし、ゴミ焼きをする庭もない(ゴミ焼きそのものが諸処の問題を孕んでいるし)。これは我が家にかぎったことではないんじゃないかと思う。 人は火を点すという行為を本質的には恐れているのだろうけど、恐れがあるだけに注目してしまうという面もあるのではないだろうか。マッチは現存する着火道具の中で、最も火を「生む」感触があるもののように感じられる。箱の側面の擦る部分(側薬というそうです)に擦りつける力の感じとか、うまく点いたりつかなかったりするところとか、持ち続けていれば熱く、火傷してしまうところとか。生の火とのおつきあいがまだそこにあるような気がして、マッチを擦ること自体も実は好きだったりする。 なので、我が家のあぶれマッチたちも捨てがたい。だいたいこれは燃えるゴミなのか燃えないゴミなのか。ゴミ、というか、立派に役立つ有用物なのにゴミといってしまうのはいかがなものか。とりあえず思いつくのはマッチ棒パズルをたくさんすることと、花火に見立てて櫓上に組み「ミニキャンプファイヤー」として一気呵成に燃やし尽くし、「燃えろよ燃えろ」など歌ってみることぐらいである。罰当たりも甚だしい。今度からは空き箱を入手するよう心がけたい。 |