短歌ヴァーサス 風媒社
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★短歌ヴァーサスは、11号で休刊になりました★
2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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荻原裕幸

 
断片性

 清水良典『文学がどうした!?』(1999年、毎日新聞社)を久しぶりにひらいたら、前々回に名前をあげた堀江敏幸のエピソードが出て来た。あるとき堀江が、断片形式の作品を見せようとしたら、編集者から、もっときちんとした論文になったら見せてもらいます、と言われたのだとか。ちょうど『河岸忘日抄』を読んでいたところだったので、思わずふきだしてしまった。
 清水の文章は、村上春樹、高橋源一郎、柄谷行人、等、現代文学に断片形式が深くかかわった事例をあげていて、たしかにそんな風にして散文表現の世界がずいぶん変わったよなあと納得するものなのだが、それはそうなのだとしても、村上春樹『風の歌を聴け』と堀江敏幸『河岸忘日抄』とでは、同じ断片形式とは言ってもまるで感触が違っている。この違いはいったい何に由来するものなのか、と、『風の歌を聴け』を再読してみることにした。
 双方の印象を端的に言うと、村上春樹の描く断片形式は、物語的な時間の流れに対して、回想や思索や気ままなおしゃべりを自在に挿入するためのシステムとして実に巧く機能している。一方、堀江敏幸の断片形式は、個々の回想や思索や気ままなおしゃべりが重なって、全体がゆるやかにまとまりのある世界として構築されている。
 というようなことを考えていて、この違いって、昨今の歌集の構成の傾向とどこか似ているんじゃないかと感じた。村上春樹のタイプというのは、どちらかと言えば伝統性の強い、私生活の時間や空間を大切にする歌集によく見られるし、堀江敏幸のタイプというのは、非伝統的な文体や方法を志向する歌集によく見られる。散文表現の世界だと、この伝統と非伝統の傾向ってたぶん逆なんだけど……。
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