短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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荻原裕幸

 
取材力

 絲山秋子のウェブ日記を読んでいたら、やたらに「取材」というキーワードの出て来る時期があった。気になって、小説と具体的に照合してみると、たとえば「第七障害」に登場する永田篤は、たしかに取材的な裏づけなしではリアルに描きづらそうな菓子職人のリアルな表情を見せていたりするのだ。むろん、まったく取材をせずに書かれる作品などないとも言えるし、小説だって取材をすれば何でも組みこめるわけではない。ただ、短歌の場から見ると、小説における取材の組みこみは、不思議なほど自在に見える。
 先に第48回短歌研究新人賞を受賞した奥田亡羊「麦と砲弾」は、作中作品の脚本の一部、その作品の撮影スタジオの様子、スタジオの外に広がる現実の世界等をそれぞれフラグメントとして描き、製作者の視点を通してまとめられた連作である。これで作者が普通のサラリーマンであるのならば、丹念に取材したのですね、という話にもなるのだが、略歴には、予想通り、「TVディレクター」と記されている。
 短歌において取材相当のものが作中にうまく活かされるのは、主に実践による取材、つまり実際にそれを体験することを通して、のようである。虚構はだめ、という文芸上の主張とは思えないような主張がまかり通るのは、非体験としての取材を活かすのがむずかしい、何か表現の壁のようなものがあるからなのかも知れない。
 虚構、虚構、と言い続けた寺山修司にしても、作品と同時に経歴まで虚構化してしまった。事実尊重主義的な風潮に嫌気がさしての行動なのだとは思うが、それでは、作品が虚構であることに耐えるためには、それに見合うだけの虚構の経歴が必要だと言ってしまったようなものではないか。別の私ではなく、同時に複数の私になるのは無理なのかな。
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