なぜ〆切を守らなければならないか
雑誌は定期的に刊行するものだし商業誌となれば銭金も絡みますます〆切は守らなければならない。そりゃそうだ。しかしそれは社会的に大人だからそうだというだけの話で、もんだいは〆切を守らなければならない文学的ななぜである。 結社誌とか同人誌とか、銭金たまわるどころかむしろ自腹切って作品を発表する場において〆切を守ることがなにか文学面で正しいふうなことを言うひとがいる。たしかに短歌の場合、つくらない時期があまりつづくと筋肉が落ち戻すのに時間がかかるのは実感だ。しかし数十年にわたって欠詠などしたことがないというのはそれはメンバーとしての正しさであってなんか文学とは別のなんだかだ。 芸術のための芸術、短歌のための短歌がもちろんあってよい。むしろあるべきである。しかしいわゆる私性、すなわち書くことと生きることとの何らかの関係を認める作者であるならば、〆切を守らなければならないと無条件に言い放ってはならない。欠詠しないということは、書くことが生きることに少なくとも気持ち優先すると作品の外側であらかじめ保証していること、あるいは書くことが生きること的しあわせな一致がなんだか前提されていることであり、作品における作中主体と現実との葛藤と現実との葛藤があらかじめ安心されていることだ。数ある結社誌に短歌としていい歌おもしろい歌はたくさん載る。しかしそれらのほとんどは、なにか決定的なところで安心しきっているように映る。わたしにはその安心が歯がゆい。 同人誌における〆切を守らなければならないにはまた別の、より一層のもんだいがある。(この項、つづく)
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