短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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荻原裕幸

 
文体力

 文芸作品について、その巧拙を中心に価値を問うことは、現在あまり意味がなくなってしまっている。むろん拙いものは拙いわけで、巧いものが批判されるのはおかしいのだけれど、ぼくたちが、巧い、と簡単に言ってしまえるような作品は、どこかにその類型が存在している場合が多いからだ。俳句などは、他ジャンルに比べ、意図的に類型に近づく傾向が強いが、それでも、お決まりの巧さ、は、批判の対象以外のものではない。
 巧い、ということの価値が下がってしまうと、おのずと巧いものは激減する。新しさを抱えた作品もそうでない作品も、多くは、巧いこととはさほど関係のないところでごちゃまぜになっていて、よくよく眼を凝らして見ないと、巧くない作品が蔓延している風景しか見えないという話になる。
 ただ、巧いことのすべてが無価値になったわけではないし、価値の多様化の嵐が吹きあれた後に、そういう状況をくぐりぬけた巧さ、つまり現在あるべき文体の力や存在感を中心とした作品がもっと浮上しても良いのではないだろうか。詩歌を見ているかぎりでは、巧さを二次的なものとして、リアリティやモチーフへと重心をスライドさせた作品ばかりが視界に飛びこんで来るのが現状のようだ。
 散文でもそんなものだろうかと気になって、あれこれと読み漁ってみた。文壇での評判を詳しくは知らないけれど、たとえば、堀江敏幸の文章というのは、類型性の罠などとはまったく別の次元で、舌鼓を打つような巧さを抱えたものではないかと感じる。今年刊行された『河岸忘日抄』(新潮社)等を読みながら、詩歌にも、どこかにこういう立ち位置があるのだろうかと思案をめぐらせたりしている。
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