短歌ヴァーサス 風媒社
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★短歌ヴァーサスは、11号で休刊になりました★
2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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荻原裕幸

 
人の名

 先日、家人と近所のケンタッキーフライドチキンへ行った。昼食の時間帯を外せばいつも大抵は空いている店なので、それなりにのんびりするつもりで行ったのだが、あいにくその日は、躾のできない母親たちとそのこどもの先客があって落ち着かなかった。母親同士がこどもを放置しておしゃべりしているので、こどもたちは、店のなかで叫ぶは、走り回るは、服を脱ぐは……。
 やれやれと思いながら、チキンをかじっていたところ、その母親のうちの一人が、娘の名前を何回か呼ぶのを聞いて、ちょっと驚いた。何回聞いても「ティアラ」と聞こえるのだった。親がふつうにそう呼ぶからにはたぶん戸籍名だろう。日本ではない場所や物語のなかで出て来るのだったらわからなくはないし、タレントさんが娘にそのような名前を付けたという話もあるそうなので、驚くようなことではないのかも知れない。ただ、日常空間で聞くとどうしても違和感が消えない。
 なるほど、「謎彦」とか「斉藤斎藤」とか「しんくわ」とか、ネーミングワンダーランドと化している最近の短歌の筆名の世界に対して違和感をもっている人たちの違和感というのは、あるいはこんな感じなのかもなと思ったりもしたのだが、自身で命名することと親が命名することとでは意味がまったく違う。そもそも筆名は非日常的なものだ。
 もちろん「ティアラ」という命名に何も問題などないし、ひびきそのものがもたらす違和感は、繰り返し聞いているうちに解消されるとも思う。それでもなお何かひっかかりが消えないのは、物語の登場人物名や筆名やハンドルネームを思わせる非日常的感覚を含んだ名前が日常に侵入した、という感覚によるものか。日常が非日常=作品の側に露出してもさほど気にならないのに、その逆はなぜか気になるみたいだ。
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