上と下
先日、芥川賞と直木賞の発表のニュースを聞いて、それぞれ、らしい感じの受賞者だなと思いながらも、候補作の著者名を見て、この種の賞における小説の二分方法は、ほんとに苦しいことになっているのだなとあらためて感じた。 文学を文学として成立させていた基盤が崩れた、というような話ももう二十年来のことで、何をもって「純」を冠とした文学と呼べばいいのかはさっぱりわからなくなっている。だからと言って、そこからはみ出たものにポピュラリティがあるとも限らない。たぶんもう一つ賞をつくらないことには解決しないのだろう。伝統系純文学と非純文学と大衆文学といった具合に。 純文学に限定しない小説誌を見ていると、そのあたりの対応はきわめて柔軟で、カテゴリーの垣根を外してしまった分、にぎやかな誌面が実現しているように思う。販売部数が存続に直に影響する雑誌の場合、実直な解決方法が実現されるということなのかも知れない。 ところで、現代詩、短歌、俳句の場合、もともとこの種の二分方法が存在しなかった。エコールはあっても、それがカテゴリーにされることはなかったと言っていいだろう。小説で言えば「純」が冠になるようなものが「上」にあり、それ以外はみな「下」にあった。現在もなおこの上下関係の残像ははっきりとある。しかし、現在、この上下関係に根拠を示すことができるだろうか? いくら何でもそろそろ何とかならないのかな、と思う。根拠を示してほしいという話ではない。根拠を示せないことを認めてほしいという話である。好き嫌いは誰にだってあるので、それはそれで構わないのだけれど、好き嫌いとこの上下は、どう考えても別物である。
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