短歌ヴァーサス 風媒社
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★短歌ヴァーサスは、11号で休刊になりました★
2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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三宅やよい

 
限りなく凡な日常

 うーん。エッセイとかコラムは苦手。
 耳元に飛んで来る蚊をはっしと掴む技も、宝くじに当たる運もない。凡にして凡な私と日常をさらすしかないんだもの。
 いつかいつかモノになる時があろうと年ばかり重ねて五十歳になってしまった。人間五十年と舞った信長は四十八で死去、漱石死ぬ寸前。芭蕉も翁なんて呼ばれているけど、時空を超えればほとんど同級生。この悟らなさはいったい何なのか! 娘の言葉を借りていえば「ヤバクない?」
 学生時代飲み屋で二十より三十が、三十より五十が一日、一年、一ヶ月、過ぎる時間が短く思えるのは、たとえば五歳の子にとってその一年は生涯の五分の一の長さであるものが、五十歳の人にとってその一年は五十分の一の比率。だからどんどん過ぎる時間が加速していくんだ、という不思議な理論を聞かされたことがある。そのとき私は二十歳そこそこの生意気盛り。そんなヘンな理論があるものか、という心持ちであったけど、「剣菱」の冷酒を隣であおってこの論をぶっていた友は四十で世を去り。貧乏学生のたまり場であった阪急甲東園裏の居酒屋も大震災で消えた。過ぎ行く歳月の速さと空しさは身にしみるものがある。時間は大切。残された時があると思ってはいけない。俳人らしく季を噛みしめ、一日一日を大切にしてゆこうと思えども、顔も身体も歪む朝の満員電車にひたすら吊り革を望み、ひと仕事終えた帰途考えるのは、俳句ではなく冷蔵庫のピーマンや卵、半分残った豆腐と豚肉の取り合わせ料理であるからいじましい。水平の日常にせめて言葉だけは垂直の方向に出口を持ちたい、句会仲間の言葉が胸に響くが、この限りなく凡な日常からどう言葉を離陸させるか、コラムを書くこと同様、む、難しい。

  三階の課長のあたりに梅雨の空  やよい

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