年の夜
一年が終わり、新しい一年がはじまる。2005年が終わり、2006年がはじまる。おさない頃、大晦日は日付が変わるまで起きていることを許された、特別な日だった。すっかり仲良くなった上まぶたと下まぶたを無理矢理引きはがし、紅白歌合戦の結末を見届け、年越し蕎麦を食べ、除夜の鐘がかすかに聞こえてくるまで持ちこたえたのだった、意地で。その意地とは、ひとえに「年が変わる瞬間を見届けたい」という好奇心だった。 蝉の羽化や、ひよこの誕生や、F1のゴールの瞬間や、とにかく何かが変わる瞬間、シフトするまさにその時を見たい、という気持ちが常にある。昼が夜になるには時間の経過がもちろんあるのだけれど、できたらかっちり変わるところを見てみたい、などと思ってしまう。ムーンフェイスの境界線のように、誰かがぱっと入れ替えをはかってくれたら、その時を見てみたい。 どんなにがんばって眠い目をこすり起きていたところで、大晦日の時計の針は一年の他の364日と同じように動き続ける。特別にタメを作ってドラムロールが起きたりはしないのである。それでも新しくなった(はずの)一年の一日目を、なんか貴重に、大事に思うのだ。その日を眠らずに迎えることの特殊さを、見届けた誇らしさを抱いて(結局)眠るのだ。 松任谷由実の「A HAPPY NEW YEAR」の歌詞に、今年の最初に会う人が「あなた」になるよう恋人のもとに急ぐ、というくだりがある。時は訪れるもので、人間の側は待つしかない。名付けるとしたら「運命」とでもいうような、抗い難いものへのささやかな抵抗として、特別な時を設け、特別に過ごしたいという気持ちがあるのかもしれない。 大仰なイルミネーションや数万人が行列する初詣は派手すぎる嫌いもあるけれど、そういうシフトの瞬間に名目をつけて、ちょっと立ち止まって前後をきょろきょろするのも悪くないと、好奇心だけでなくそう思う。去年のあなたは、どこで誰とどんな夜を越えて今年を迎えましたか。どんな場所にいても、眠ってても起きてても、良いお年を。
怪盗は大つごもりの屋根の上 常夏 |