ことば
短歌を書きはじめてしばらく、モチーフの是非をあまり気にせずに書いていたものの一つに、短歌についての短歌、がある。歌集に収録したことのある作品では「歌ひ歌へど天は動かず歌はねど地球しづかに廻りつつあり」等がその類だが、あるときから一切書かなくなった。理由は単純なことで、「歌ひ歌へど」でもあからさまに露呈している自己陶酔が、どうしようもなく自分自身の鼻につきはじめたからである。 もちろん短歌という詩型は、自己陶酔や自己愛、ならびにその陰画としての自虐などを誘発しやすく、客観的な写生をベースとした作品でさえも、程度の差はあれ、その客観的な写生のなかに自己の何らかの投影を見るからこそ作品として成立する場合が多いわけである。だから、自己陶酔が鼻につくなどと言い出したら、短歌を書くことそのものの否定にもつながりかねないし、自身の作品を全否定するようなものなのかも知れない。それでも、短歌についての短歌、だけはどうしてもだめだなという感覚は揺らがずにある。 歌人が私生活を短歌の素材とすることは珍しくない。ならば、私生活の一部を構成しているはずの短歌そのものを素材としてもいいのではないか、と理屈の上では思う。けれど、歌人が短歌について短歌で書くとき、私情以外のものが一切介入できなくなるある種の絶対的な磁場が生じてしまうようなのだ。 塚本邦雄には「夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出づるよすが」とか「歌のほかの何を遂げたる 割(さ)くまでは一塊のかなしみの石榴(ざくろ)」とか、言語表現に言及した歌が多くあったけれど、後者のような歌にだけはどうしてもなじめなかったのを、生前の師の面影とともにほろ苦く思い出す。永別の二〇〇五年が暮れる。
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