短歌ヴァーサス 風媒社
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★短歌ヴァーサスは、11号で休刊になりました★
2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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斉藤斎藤

 
エンケンの出ない紅白なんて

 といった具合にポタライブのおもしろさは路地に集中している。せまい道幅に作者と役者とお客と通行人がたまたま居合わせることで、「これは芝居のようなものでして」とお客が作者を代弁したり、うっかり通りがかった通行人が実は仕込みの役者なのではないかと疑われてしまったりするおもしろみは、劇場で芝居がはじまる前に客席を眺めまわすたのしみを昇華したもののように思う。
 さて、ひとしきりおどり終わって素にもどるおどりおばけこと榊原純一はありがとうございましたと頭を下げて(一同拍手)、「じゃ、この近くに昔からのお稲荷さんがありますんでちょっとお参りに」とみんなを引率してゆく。さっきまで楽器を鳴らしながらついて行った惰性でついて行きながらちょっと待て、と戸惑いながらついて行く。ちょっと待て。
 たしかにどの駅前もおなじ駅前になってゆくのはどうかと思う。それに対抗するには地域のつながりという線はむずかしいなりにアリではある。だからと言ってお稲荷さんか。お客さんに、神社仏閣への立ち入りを極力避けるよう説く宗教の信者がいたらどうするのだろう。もちろん参拝を強制されるわけではない。敷地の外で待っていても何も言われるわけではなかった。でも特定の信仰を持たず無神論者でもないお客さんが次々とお参りしてゆくなかで、お稲荷さんの入口に突っ立ってるのは決して気持ちのいいもんではなかった。しかし私は神社仏閣への立ち入りを極力避けるよう説く宗教の信者ではなく、ペースメーカーに影響が出るから携帯電話を使うなと説く元気者のようなものか私は。そもそもお稲荷さんに手を合わせるのは宗教ではないとする宗教観もあって、それは宗教だとする宗教観とどっちに軍配を上げるか決めるのは誰か。芸術と宗教は分離すべきか。(この項、つづく)
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