短歌ヴァーサス 風媒社
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★短歌ヴァーサスは、11号で休刊になりました★
2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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三宅やよい

 
財布を落とした

 あろうことか出勤直前まで気付かなかった。
 夕方駅前のスーパーで買い物をしたのが最後だからと、駅の階段を駆け下りて朝の搬入をしている若い店員に尋ねてみたが「ない」という。免許書や保険書。カードも何枚か入れていたので、交番に飛び込んで紛失届けを出し、銀行やカード会社に電話をかけるだけで午前中いっぱいかかってしまった。運転免許試験場に行くやら、書類を何通も書くやら。ようやく新しい財布に再発行の顔ぶれが揃った二週間後、スーパーから財布が届けられた。買い物籠からポリ袋へ詰めてゆく台の下にあったらしいが、どうして見つからなかったのだろう。(掃除しないのか!?)
 せっかく戻ってきた財布だけど現金以外はお払い箱になってしまった。
 齋藤茂吉が衿の隙間に滑り込んで見失った襟巻きについて書いた随想に、忽然と姿を消した花嫁が百年後、盛装の骸骨姿で地下室の奥深く発見されたというドイツの話を紹介している。それほど劇的でなくとも、失せものが人の眼に触れぬままに落ち込んだ場所で在り続けるのは、何となく不思議だ。時間の裏側のそこはどんな場所なのだろう?
 阪神タイガースと推理小説の好きだった友は、四十の誕生日も迎えぬままあっけなく亡くなってしまった。学生時代から互いの連れ合い共々親しくしていたその友とは、倒れる二日ほど前にも家族同士で遊んだばかりだった。死に顔は見ているはずなのに、あまりに急だったので、まだどこかにいるような気がして、悲しみが収まったあとも割り切れない気分がずっと続いた。
 それから十年、思い出さない日も多くなったが、駅の踊り場に座り込んでいる見知らぬ女の子に彼女の面影を見出してはっとすることもある。彼女の娘もうちの娘も私達が出会った年齢をとうに過ぎようとしているのに。

  懐手犬と月とに触りけり  摂津幸彦
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