短歌ヴァーサス 風媒社
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★短歌ヴァーサスは、11号で休刊になりました★
2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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荻原裕幸

 
笑芸歌

 歌会で、ある作品に票を入れた理由を訊ねると、面白かったから票を入れました、というトートロジー的な答が返ってくることがある。あれは困る。票を入れた時点で面白いと感じたのはわかるわけで、たしかに面白さに理由などないような気もするけれど、それでは歌会が機能しないのである。よって司会的習性から根掘り葉掘り理由を問いただすことになる。しかし、面白くて笑ってしまったので票を入れました、と言われると、なぜか納得してそれ以上つっこむ気になれない。
 実はぼく自身、笑ってしまった作品には敬意を表してそのまま票を入れることが多く、どうやらぼくのなかでは、笑いというものが、明確な一首の価値として機能しているらしい。笑えれば即良い歌、とまでは言わないものの、笑えるほどの歌には何かがある、とはいつも感じる。かなしさをきわめた歌に何かがあるように、きっと、おかしさをきわめた歌にも何かがあるに違いない、などと思っている。
 藤原龍一郎が、笹公人の短歌を「笑芸」というアングルからほめたことがあった。「笹公人は方法論として、笑える短歌を成立させてみせたのだ」という。ぼくの感覚では、笹の作品には妙に抒情的な処理がほどこされていて、素直に笑いきれないものも多いのだが、しかし、藤原の賞讃にも笹の方法論にも大いに納得はしている。その歌人の気ままな一方法や異色作としてあるのではなく、笑芸という、意識的な、からだをはった感じがいいではないか。
 ちなみに、あえて笑芸という視点を立てるのであれば、斉藤斎藤と松木秀の存在も欠かせないように思う。まあそう言っても本人たちは拒むかも知れないが……。短歌における笑いの価値がもう少し論理的な文脈を得たら、現代短歌の地形は、さらに大きく変動するのかな。
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