ぼくはぼくらを束ねるリボン
日本という幻想の伽藍に身を委ねることは、わたしたちにとってごく自然な信仰態度ではないだろうか。そしてそれは、世界の散文性を乗り越え、目に見えぬ大きな力への畏れと感謝の気持ちを取り戻すことに、おのずから通じてゆく道ではないだろうか。日々、差異の地獄を渡りながら、わたしはそれを信じている。それを祈っている。 高島裕「かなしみの伽藍」
<問>「わたしはそれを信じている。それを祈っている」の「それ」は何を指しているか、述べなさい。
<答>日本という幻想の伽藍に身を委ねることはわたしたちにとってごく自然な信仰態度であり、それが世界の散文性を乗り越え目に見えぬ大きな力への畏れと感謝の気持ちを取り戻すことにおのずから通じてゆく道であること。
すなわち高島の信仰は、信仰についての信仰である。伽藍は二階建になっていて、「日本という幻想の伽藍」を信じるわたしを、「伽藍に身を委ねることがわたしたちにとってごく自然な信仰態度である」と信じるわたしが支えている。さらに、
○祝福の場から生まれた、花束のような同人誌。個性豊かな他の花たちに負けぬよう、最高の自分を、自分だけの色で咲かせようと心がけました。美しく咲き競うことができていたら、幸いです。 高島、巻末の「ひとこと」
伽藍の外側をほぼSMAPで囲っている。「最高の自分を、自分だけの色で」と「わたしたちにとってごく自然な態度」の両立はかぎりなく不可能に近い。ていうか、それがほんとうに「わたしたちにとってごく自然な態度」であると自然に信じていれば、「自分だけの色で」という意識は生まれなかったはずだからだ。不可能美に殉ずる的美学を持つ高島にとって[sai]への参加は、不可能のハードルを上げるはたらきとしてプラスに作用したようだ。評論の内容には一向に賛成できかねますが、評論・作品・ひとことのせめぎ合いにはとても読み応えがあった。
ひとりの読者として、<読みたい雑誌>をつくりたいと思いました。作品が、その場に<異なる声たち>として存在している本を読んでみたい、と。結社や世代を越えて、さまざまな個性を持った書き手たちが、外を向いて立っているような場、という印象をお持ちくださったのなら、幸いです。 鈴木暁世「編集後記 西からの手紙」
編集方針として正しいと思う。しかし[sai]は同人誌である。さまざまな「個性」の持ち主と「同人」であろうとするならばそれはもうナンバーワンよりオンリーワンを目指さざるを得ない。しかし書くとはそういうことか。読み手の欲望は、書き手の知ったことなのだろうか。 たとえば生沼や高島のような共同体主義者にとって、同人誌[sai]への参加は負荷となりプラスにはたらき得るが、もともと「個性的」な書き手にとって、それはある種の居直りにつながりかねぬ甘い毒薬であるように思う。私には、[sai]創刊号の今橋愛はつまらなかった。『O脚の膝』ではプラスに作用していた他者の見積もりの甘さが、[sai]ではマイナスに作用しているように映る。第2号をたのしみにしている。
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