目的性
短歌を書く目的は、人によって違うであろうし、一人の歌人のなかでも、歳月を経て変化するものであろう。もちろん違っても変化しても構わないのだし、むしろその違いや変化がどのように作品上にあらわれるかは、短歌を書きそして読む楽しみの一つでもある。なぜ短歌を書くのか、そのためにどう書くか、という問いかけが、短歌を書かせ、短歌を読ませるための大きな推進力になる。 ただ、厄介なのは、そうした目的性を単純に貫いたとき、つまり、作者が意図した通りに作品を書きあげてしまったときや書きあげたように見えるとき、しばしば、作品がやけにつくりものめいてしまい、現実性を喪失してしまうことだ。目的的でありながらも、結果として目的から逸れてしまうようなときに逆に現実性は強くなる。仮に、虚構や空想をモチーフにしていても、つくりものめいていないという意味での現実性は必要になるのだから、これは厄介と言うほかにない。 こうした目的性の陥穽から逃れるにはどうしたらいいのだろうか。端的に言ってしまえば、「他者」とか「自然」といった目的化できない何かを作品に招喚するしか方法はないのだが、それをもっともシンプルに実現するきっかけの一つに、題詠、がある。 むかしはともかくも、現代では、「他者」の声以外の何ものでもないような題にしばしば遭遇する。たとえば、現在参加している「題詠マラソン」という企画で、ちょうど手をつけている題が「じゃがいも」なのだが、ぼくの短歌観のどんなコンテクストにもかかわることのない題なのである。適当にお茶を濁せばそれはそれで済んでしまうけれど、自身の文体をリフレッシュするきっかけになればとも思い、試行錯誤しているところである。しかし、「じゃがいも」ねえ。書けるかな……。 |