短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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荻原裕幸

 
句会考

 25日の矢島玖美子さんの「ラブホ句会」というタイトルを見て、川柳ではラブホテルに行ってまで句会してるのかぁ、と、よくよく考えてみればおかしな方向へと単純に反応してしまった。読んでみると微妙に違った。あたりまえか……。これが「ラブホ歌会」ならば、たぶんまず疑ってから読みはじめたと思う。
 というのは、歌人としての感覚からすると、川柳作家も俳人も、異常なほど句会が好きなのである。むろん、歌人だって歌会が嫌いなわけではない。結社その他の場所で定期的に開催されてはいる。けれど、句会直後の居酒屋で、第二ラウンドはじめるか、句箋まだ残ってるか、もうないの? だったらこれで、とか言いながら、箸袋を丁寧に裂きはじめるほどの執着(実話)は、短歌ではあまり見かけない(よね?)。
 単なる経験的な印象なので、あまりあてにはならないものの、短歌に比べ、川柳と俳句では、作品の互選合評がいたく好まれるらしい。これは何なのだろう?
 気ままな仮説では、つまるところ、五七五では自足しにくいものが五七五七七だと自足しやすい、ということなのだと思う。短歌は、自分で書いたことばに自分で共鳴しやすい、自身の内面に同調させやすい、いささか自虐的に言えば、自己陶酔しやすいのだ。川柳と俳句にもこの種の傾向はもちろんあるはずだが、比べてみれば、読者を経ないと自分のことばに共鳴しにくい面があるのではないか。
 と書いているうちにふと気づいた……。短歌で、題詠の時代などとも言われ、互選合評がやたらに盛んになったのが1990年代の半ば。この気ままな仮説にもしも何らかの蓋然性があるとしたら、短歌の場の状況は、あの頃から、読者を経ないと自分のことばに共鳴しにくい、という方向へと少し傾きはじめているのかも知れない。
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