短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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斉藤倫

 
ティルマンスを嗅ぐ(野川公人さんのHPから)

 なんの根拠もないままに、ヴォルフガング・ティルマンスと佐内正史の写真が似ていると思えるのはなぜなのか。すべての写真の根本に「瞬間を永遠に変える」欲望があるとしたら、彼らにはその欲望があからさまに露呈して感じられる。
 恐ろしいまでに「衰弱」した彼らの被写体は、しかし、現代という時代の共通の兆候にすぎない。むろん今の時代でも、人物や物たちの生命力を定着させる写真家はいる。荒木もナン・ゴールディンも長島有里枝もそうだろう。一方で、現代を普通に撮ったらこうなるよ、とでもいわんばかりに、消尽したものを写し続ける者がいて、そこに付きまとうのは「出会う」という感覚だ。あたかもエリオット・アーウィットが「写真の才能とは、正しいときに、正しい場所にいることだ」と語ったように、いやそこまでの事件性さえなく、ただ彼らはそこにいる。その手つきが、いやおうなく、その瞬間、その場所にいたというかけがえなさの発現を招く。
 創作物にいかにして時間を持ち込むかという課題は、ほとんどアポリア(解決不能な問題)と感じられる。その芸術ジャンルじたいが、時間をいかに扱うかというトライアルによって発生したといえるからだ。写真は「一瞬」と「永遠」というペアの時間形態を自ずから内包している。俳句、短歌も明らかに近いが、言語というリニアな時間の流れをツールにしている分だけ、逃げ場があるともいえるし、不純ともいえる。ただ、俳句を「侘び・寂び」に直結させた何かは、ティルマンスや佐内に起こりうる「かけがえなさ」の発露と、同様の起源をもつし、その一方で、写真集、歌集、あるいは連作として、リニアな時間を持ち込もうとする契機をかならず生む。
 だがもうひとつだけ、その「瞬間」-「永遠」形態に時間の持続を持ち込める媒介がある。それが「私」だといえる。写真家自身や、歌人自身であってもいいし、そうでなくてもいいのだが、「私」なる装置を補助線とすることで、作品に新たな動因を生み出し、悪くいうと生き延びる術を見出す誘惑は退けがたい。
 現在、「その時=その場所にいることのかけがえなさ」が台頭するように見えるのは、写真なる表現手段の平均化、一般化とも関係しているのはいうまでもない。手段が安価になり、技術の高低が不問とされたとき、表現の差とは、「その時=その場所にいること」とほぼ等価となる。そして見逃してはならないのは、その状況は既にして原理的に「私」を含まざるを得ないことだ。
 このような趨勢は、いち早く写真というジャンルより発生したが、現在、PCやインターネットによって言語芸術にも及び出したと考えられる。写真に起こったことは、俳句、短歌にまったく同じように起こると考えて間違いない。詩、小説、演劇、映画、絵画、音楽等のジャンルには、表現手段の平均化による波にあるにしても、写真のように「私」へのインパクトが直撃せずにすむ理由はある。むろん詩はおそらく60年代の入沢康夫の仕事で、小説は「私小説」の発生と衰退として、いったん切り抜けた経験をもつがゆえ、ジャンルとしての統合失調への免疫はあると考えていい。
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