きいろい雪
きいろい雪が降る国あればじんじんときいろいゆきにうもれてねむる (中津昌子)
黄色の雪という不思議なイメージに惹かれた。赤や青の雪は、あり得ないとしてもまだわかる気がする。心象の比喩として、むしろよく見かける形容色だからだ。珍しさを狙った作為的なものだとしたら方法的な底は浅いけれど、比喩や作為といった印象は薄い。この一首を含む中津昌子の第二歌集『遊園』(雁書館)の「セロファンの空」一連には、菜の花、キリン、チューリップの黄、ダスキン、等々、黄色のモチーフが繰り返しあらわれる。たぶんそうしたモチーフの追求のなかで書かれた黄色の雪なのだろう。 リアルに解釈しようとしたら、黄砂の国か、こどもの描いた絵のなかの国か、どちらかに思いを馳せていると読むべきだろうか。実際に今年の冬、ロシアや韓国で黄色の雪が降ったというニュースを聞いた。環境破壊が原因ではないかと言われているけれど、十年ほど前に書かれたこの歌にはあわない気もする。できれば、こどもを育てる日々のなかから発見した「きいろい雪が降る国」だと読んでおきたい。その方が「うもれてねむる」のもたらす哀愁が活きるように思う。
潮の香のふくらみくれば橋を越え郵便局へ曵きゆくからだ 負えばうなじに重き桜や踏切の音が両手を広げいるなり パンを持つおのれの影とあそびいる子にまっ白なミルクを注ぐ 心残りは何もあらねどこののちに生む子に鹿の匂いあるべし
いずれも歌集『遊園』の作品。後の第三歌集『夏は終はつた』(青幻舎)にもつながってゆくスタイルで、現実から取材した何かを予定調和的に加工しない。世界を結論づけた位置から語らない。この作者は、ありのままだからこそ生じる世界の軋みを楽しんでいるのかも知れない。
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