Barcarolle 舟歌
日々初夏らしくなりますね。水遊びの季節が近づいてきています。 先日、私が短歌の手ほどきを受けている辺見じゅん氏に、この欄でおもに短歌のレトリックについてエッセーを書いていると言うと、 「レトリックか…。夢中になると迷路に入るわよ」と、ひとこと。 いま、この師匠の言葉が身に沁みて分かります。 年齢のわりに歌作年月の浅い私は、長い短歌史のいちばん端っこに呆然と立っているという状態です。前の世代の歌人たちがさまざまなレトリックを凝らした作品を発表したあとの時代にいて、そんな私がなすべきことは、前の時代は無かったことにして近代短歌めいた懐古主義に走ることでもなく、かといって時間の流れとともに短歌の新手法が生まれるべきだという、無邪気な表現進化論を信じることもできず、結局はひとつひとつの過去の表現手法が、「この私」と結びついた時にどのようなイメージが生まれるのかを検証するしかないわけですが、まあ正直言って迷宮入り寸前。とはいえ今回は回想シーンをもとにして、短歌のレトリックを考えてみようと思います。 大切な思い出として繰り返し頭の中に再生される映像も、時を重ねるにつれ、古びたフィルムみたいにどこかすり切れたり、色が抜けたり、コマが欠落したりするものです。ぽろぽろと零れてゆく過去の映像を、リアルな言語表現としてどうつなぎ止め、再生産すればよいのでしょう。我々には31音しか使うことが許されていません。
炎天を水尾の一筋あらはれて母のパラソル父の櫂かな 辺見じゅん 「秘色」より
これは、<燃えるような夏の空に水をひく一筋があらわれた。パラソルをさす母、櫂をこぐ父(を乗せた舟がいくのだろうな)>という意味の歌です。 読者にはなぜ、この歌が夏の空を見た作者の幻覚ではなく、回想であると感じ取れてしまうのでしょう。 きょう、私は短歌特有の表現手法のひとつとして「共感」という言葉を挙げたいのです。たとえば上の一首ですが、上句のみを見ると作者だけの幻視体験ともとれる。それが読み終わったときに存在感のある一首になるのは、下句の部分が子ども時代の両親とのボート遊びという読者がもつ共通体験(あるいは疑似体験)に振れるからです。 ただでさえ使える単語数の少ない短歌(幻想的な作品は特に)が、リアルな映像として再生されるには、読んでくれる人の脳内(=ビジョン)のどこかにある共振装置をダイレクトに動かす、平たく言えば読者の思い出さえも利用して映像を立ち上げることも必要でしょう。 このことは既に体系づけて解説されているのかもしれませんが、このごろ「共感」という言葉が、ポピュラーなものや情に訴えるものにたやすく同調するという意味ばかりに使われている気がして取り上げてみました。
+25 Easy Etudes, N゜22
未来という設定では、どのように読者の共振装置を動かせられるのかを考え、SFな短歌を一首つくってみなさい。
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