第19回 コーラス(喫茶「湯河原」さんのHPから)
今回は「コーラス」について考えてみたい。 僕は音楽でときどき泣く。いろんなポイントで泣くのだが、意外と共通点がある。 コーラスだ。たとえば「ママ・アイ・ウォント・トゥ・シング」。その美しいハーモニーより、むしろ1曲目。教会のゴスペルコーラス隊の練習風景に、神父がダメ出しをする。その叱咤の声と、おずおずとそれに応えるコーラス隊の声が、次第に掛け合いになっていく。コール・アンド・レスポンスがインプロヴィゼーションのようにコーラスに転じていく。それに僕は感動する。 コーラスとハーモニーは違う。予定調和も調和のうちだから勿論美しいと思うけど、コーラスにはもっと不穏なものがある。 たとえば向こうのロックによくあるけれど、アーティストが歌っている。ワンコーラス歌う。それで2番の途中ぐらいから突然誰だかわからない別の女性ボーカルが主旋律に入ってきて、適当にサビをコーラスしたりして、いい加減な感じで去る。それっきり特に説明もない。ジョン・クーガー・メレンキャンプの「チェリー・ボム」なんかがそうだ。日本だと銀杏ボーイズの「駆け抜けて性春」もそう。2番のような3番のような転調の途中あたりから、ゲストのYUKIが入ってくる。ワンフレーズ歌いきって立ち去るように消える。 ブルース・スプリングスティーンのライブ盤における「ハングリー・ハート」も強烈だ。イントロが始まる。客が沸く。イントロが終わったのにブルースが歌わない。どよどよした客の声が少しずつ歌に変わる。曲は続いている。ブルースはまだ歌わない。はじめはまとまりのない観客の声がはっきりした旋律に変わり、一つの歌声になり正確に響きはじめる。サピにさしかかり、客は1番すべてを歌いきる。そして2番の頭からブルースがようやく歌いだすとき会場は異様な熱狂に爆発する。 コーラスは難しい。そもそもはギリシア悲劇における合唱隊を指した。コーラスこそ劇の根本的なものであり、登場人物である神々のストーリーと、観客の代表する一般的な社会意識との間隙を埋めるものとされた。その論調に真っ向から反対したのがニーチェである。彼にとって芸術とは芸術家一人のものであり、一般人である客がそれを規定しているなど到底許しがたいことであった。 勿論僕も芸術は観客が一体になって創るものだなどと主張したいわけではない。ただワンヴォイスに対して、アナザヴォイスが入ってくるときの戦慄。そうした快感は、厳然として在る。この問題はむしろニーチェというより、エクリチュール/パロール図式の、デリダ的パースペクティヴで論じ直すべきかもしれない。
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