短歌ヴァーサス 風媒社
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2004.8.2〜2006.6.30の期間(一時期、休載期間あり)、執筆されたバックナンバーをご紹介します

 
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佐藤りえ

 
橋を渡る

 川のほとりに引っ越した。移転を告げる会話の中では決まって、近くになにがあるのかをたずねられるし聞くけれど、「川が近い」と答えることができるのはなんとなくうれしい。駅のそば、公園のそば、学校のそば、環状線のそば、などと、家というのはだいたい何がしかに近接しているものではあるけれど、川とか海とか、そういうものがうれしいのは、流れているものだからかもしれない。
 川の両岸には細い舗装路があり、朝夕ジョギングする人や犬の散歩をする人の姿を目にする。水量は少なくて、流れる音も聞こえないほどのささやかな水辺に、鴨が二、三羽ぷかぷか浮いている。絶賛求愛中のものもいれば、めでたくつがったものもいて、狭い水路もそれなりに賑やかな春の風情をたたえている。
 住宅地のどまんなかを横切る川には、たくさんの橋がかかっている。川沿いを数分も歩くと次の橋に行き当たる。川をはさんで前後の住宅街はゆるやかな丘陵で、片方からは急スピードの自転車が駆け下りてきて、逆側からはベビーカーを押した奥さんがゆったりした足取りでやってくる。
 たくさんの小さな橋は、それがどんな小さなものであっても、ひとつずつに別々の名前がついている。欄干についているレリーフに、たいていはひらがなで名前がしるしてある。橋の名前は意外に現実的なものが多かったりする。ここで挙げたいけれど帰ってくる道すがらに忘れてしまった。名前は忘れ、その意外な感じだけが残っている。
 橋の向こう側がいわゆる駅前通りで、細い道ながらバスがたくさん通り、商店も多く、夜更けまで人通りが絶えない。橋のこちら側はすっかり住宅街で、日中でもしん、とした空気が充ちている。クリーニング店がやけに多く、個人医院の建物がやけにおしゃれである。散歩中の犬は吠えない。犬を抱いて歩くひとを、ここに来てからはあまり見ていない気がする。
 川にはなぜか鯉もいて、鴨を見ようと覗き込んだ水の中をのんびり泳いでいるのに時折気づく。橋の真上から見ていると、鯉の背中は水面に触れるか触れないかの深さにあり、水のおもてにその進んだ軌跡を残しているような錯覚をおぼえる。高い春の日の陽光を跳ね返す姿をうっかり長々と眺めてしまいそうになりながら、踵をかえして橋を渡るのだった。
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