GAPにちょっと戸惑っています。
短歌におけるふつうのふつうは、腹八分としてのふつうだった。 たとえば小池光。『日々の思い出』以降の小池短歌に描かれる世界は、とてもふつうである。しかしそのふつうさは、どこかにある100点を想定しつつ、あえて私は78点で行きますよ、とか、この世界は78点ですがわたしたちはここで生きていくほかないですしね、という腹八分の美学である。 小池のような偽ふつう的スタンスはとても有効だがしかし、われわれ世代には見習いにくい。たとえば<近代>を100点でしょうとしても、多くのひとの共感を当てにできにくいからだ。理想のない時代に、ふつうをどう説得的に描くかというもんだい。 宇都宮敦のふつうは、足し算のふつうだと思う。100点からの引き算として78点を描くのではなく、75点の表現を積み上げてゆくうち力強い78点の世界を構築していて、このようなふつうを短歌で見たことが私にはない。「ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー」を読んでとても感動するのは、この作者は<ふつう>を獲得すべきひとつの理想だと本気で思っているのではないかという内的なつよい感じを感じるからである。否定を契機とするふつうではない、肯定を契機とするふつう。それは実は笹井宏之の奇妙なあかるさにも通底するものなのではないか。 「数えてゆけば会えます」について、「リアルタイム・スペース」で荻原裕幸は
気になったのは、連作の流れで たぶん作者がそちらを状況としてベターだと考えているらしき、 詞書「いま」よりも後の作品にかすかに漂う明るさでしょうか。 「いま」よりも前の緊張感のある文体がより良いと思うのです。
と述べているが、「歌葉24時」で永井祐は
「いま」と書いてある後、後半の歌の方がいいと思って、 「いま」から後は全部取ってもいいぐらい。
と述べているGAPにちょっと戸惑っています。この対立がどこに行き着くかわからないけれど、何はともあれログ・イン!
歌葉24時 http://6102.teacup.com/nagai/bbs
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