短歌ヴァーサス 風媒社
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2003年11月、風媒社刊
佐藤りえ第一歌集『フラジャイル』批評会
(2004年4月 池袋・東京芸術劇場)

 
パネリスト 佐藤弓生+櫂未知子+加藤治郎+林浩平 (司会)藤原龍一郎
当日配布された
レジュメ
■『フラジャイル』を読む 加藤治郎
■『フラジャイル』について 佐藤弓生
■佐藤りえ『フラジャイル』批評会レジュメ 櫂未知子
■佐藤りえ歌集『フラジャイル』批評会資料 林浩平
パネリストの
プロフィール
■佐藤弓生(さとう ゆみお)
歌人。「かばん」会員。歌集『世界が海におおわれるまで』、詩集『アクリリックサマー』『新集 月的現象』(すべて沖積舎)、訳書等。第47回角川短歌賞受賞。

■櫂未知子(かい・みちこ)
1960年(昭和35)北海道生まれ。二十代半ばに短歌を始め、のち俳句に転向。句集に『貴族』(中新田俳句大賞受賞)・『蒙古斑』、句文集に『櫂未知子集』、NHK生活人新書『季語の底力』(俳人協会評論新人賞受賞)。現在、「銀化」同人。短歌誌「心の花」所属。

■加藤治郎(かとうじろう)
1959年名古屋市生まれ。1983年未来短歌会に入会。1986年「スモール・トーク」にて第29回短歌研究新人賞を受賞。1988年第1歌集『サニー・サイド・アップ』にて第32回現代歌人協会賞を受賞。1999年第4歌集『昏睡のパラダイス』にて第4回寺山修司短歌賞を受賞。現在「未来」選者。

■林浩平(はやし こうへい)
詩人・東横学園女子短大助教授 1954年和歌山県生まれ。日本近代文学会、和歌文学会会員。詩集に『光の揺れる庭で』(書肆山田)ほか。詩誌「ミニヨン・ビス」主宰。

▼司会
藤原龍一郎(ふじわら りゅういちろう)
1952年福岡生まれ。1971年「短歌人」入会、現在編集委員。1990年第33回短歌研究新人賞受賞。歌集『東京哀傷歌』『東京式』『花束で殴る』、短歌発言集『短歌の引力』など。
批評会全記録
藤原: みなさんこんにちは。佐藤りえ第一歌集『フラジャイル』の批評会をはじめたいとおもいます。それでは早速、歌人の加藤治郎さんからご発言いただきたいとおもいます。加藤さんよろしくお願いします。
 
加藤: 加藤です。携帯電話をお持ちの方はマナーモードにしてください(笑)。今日は詩人の方、俳人の方がパネラーということで、自分があたりまえのように考えている読みが、実はあたりまえの読みじゃない、というようなことに気づかされるかな、と考えて、ちょっとまっさらな気持で、ふだんの自分が歌集に接する仕方あたりを疑ってかかるというか、そのあたりを自分でも楽しみにしてきました。

*「第一歌集」という装置
 
加藤: 歌人の読み方としては、まず第一歌集を「第一歌集」として読もうとする奇妙な癖があるんですよね。それは第二歌集とか第三歌集ではない、第一歌集固有のものがそこにあるということだと思うんですけども、まず十二年間の作品であるということ。これはそんなにめずらしいことではないんですけど、実はまっさらな目で見てみるとすごいことだ、と。詩とか俳句ではどうなんでしょうね、あるんでしょうけれど、一人の作家の十二年間というスパンの作品が収められているということ、これも考えてみたら、驚くべきことだと思うんですよね。で、だいたい第一歌集に接するときっていうのは、「初期歌篇」っていうのが編集される場合があるんですよね。「初期歌篇」をこんなふうに歌っていて、そこから十二年かけてある作風へ転換していったと、たとえば最初、文語主体で作っていたのが口語を使うようになっていったとか、そんなプロセスを見せて、つまり一冊の歌集の中にあるベクトルを見せるという、そういうところがあるんですけど、この『フラジャイル』っていうのはそういうベクトルというか、第一歌集によくある歌風の変遷みたいなところはうまくきれいに消去されてて、わたしも繰り返し読んだんですけれど、どれが最初の頃の歌か、とか、そのへんがまったくわからない。ひょっとしたら、最初から完成された作風だったかもしれないんですけど、まず、静かな趣の歌集だなというのが第一印象です。

*歌集ブースター説
 
加藤: もうひとつ感じたことは、これも最近ではある流行かもしれないんですけど、歌集のオフィシャルサイトがあったり、最初この歌集が届いたときにまさに「FRAGILE」というパッケージになっていた、そんなつくりですとか、この批評会に到るまで、歌集だけでない、広がりというものをうまくプロデュースしているなと感じたんです。とはいうものの、結局最後は歌集を取り巻く現象とか、あるいはこの歌集そのものも、ここにある何首かの歌を打ち上げるための推進力にすぎないんじゃないかと思うんですね。私はやっぱり、最後にはどの歌が残っていくのかっていう、あたりまえでシンプルなところで読んでいきたいと、そう思うわけです。

*定型という名の天秤
 
加藤: 引用してきた作品は「いい歌」といいますか、秀歌ということで選んできました。いい歌を選ぶのにまったく困らなかったですね。だいぶ精選して選ぶ感じの20首ですが、まずは、歌集の巻頭にある歌なんですね。

この夜がこの世のなかにあることをわたしに知らせるケトルが鳴るよ

一首めの歌で印象に残る歌なんですけれど、意外に解釈が難しくて。栞で香川さんと東さんが書かれているんですけど、それぞれ別の見方をされていたように思います。まず、この夜は「この世」の中にないと感じる、不思議な空間にいるっていうことを言っているわけですね。それで、ピーというケトルの音ではっと我に返る。そんな不思議な夜だったんですよ、そんな夜があなたにもないですか、っていうことをちょっと問い掛けてくるような、そんな歌ですね。ここに私は佐藤さんていう人の自意識の確かさを感じるんです。その、じっと夜の世界の感触を確かめようとしているうちに、もうひとつのなにか世界を作り出して、そのもうひとつの世界を作っていく途中で中断してしまった、はっと気づくという、そんな歌だと思うんです。
 ここまでが歌の解釈だとすると、この歌が歌集の冒頭に置かれているというところで、これからはじまるこの歌集というのは、この世の中にはないもうひとつの夜を作ることなんだよと、そんな歌集の入り口のような歌だと思うんです。あるいは、よく映画とかであるんですけれど、これはラストシーンかもしれないんですね。ラストシーンが最初に置かれていて、この世の中ではない別の夜、それがこの歌集であって、それがパッと終った、そんなとこから逆に始まっているんじゃないかと、そんなふうにも読めるんじゃないかと思います。そういう意味で、冒頭のこの歌は印象深い歌でした。それで、「定型という名の天秤」とタイトルをつけてみたんですけど、そのあたりちょっと読んでいきます。

嫌いって言えないジンに浮いたまま拾い上げないライムの輪っか
一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン


この「嫌いって言えない」に「ライムの輪っか」をあわせているところですとか、「一人でも生きられるけど」、「塗るマーガリン」ですね、こういったいわゆる短歌的な喩というよりはもう少し自由な感じで、読者にイメージの印象だけが何か伝われば、短歌というのはそれで充分なんだという、投げかけられるものが心地よくて、軽い感じがするんですね。佐藤さんのイメージの引用の仕方というのは、「嫌いって言えない」に「浮いたまま拾い上げない」が微妙に重なるし、次の歌でいうと、「一人でも生きられるけど」と、微妙に「おそろしい」というところが響き合っているんですね。この構造が文体としておもしろい。単に何か言いたいことがあってイメージをぽんと置くんじゃなくて、イメージにもう少し踏み込んで、心理が投影されているというような、そういった作り方、これは天秤のバランスのよさかなあというふうに思います。ただ、バランスがとれすぎるとどうかというところもあって、

シナモンのドルチェをすくう銀の匙おんなのこってためらいがない

これなんかはあまりにもイメージと言いたいことのバランスがとれすぎて、ちょっと綺麗すぎるかなあと。むしろアンバランスなところに表現のおもしろさが出てくるんじゃないかと思うんですよね。

鍵盤に指をおろした瞬間に逢う音のような君に会いたい
さかさまに置いたカップの内側のような部分が君にもあるね


これはちょっと天秤のバランスが「詠む」ほうに傾いたかなあと思う歌ですね。こういった歌の作り方を見ていくと、ほんとうに丁寧に、うまく作られているなあという感じがして、

届かない手紙を書いているような日々です桃のゼリーをつつき

すっと入ってくる歌なんですけど、修辞としてはほんとうにおもしろい歌ですね。今、ふたつの系統で言ってきた、イメージをぱっと提示するやり方と比喩が入れ子式になっているものとが、からまったような歌なんですね。「届かない手紙を書いているような」という比喩と、さっきの系統でいうと「ライムの輪っか」とか「塗るマーガリン」とかイメージで全体の雰囲気をふわっと作るやり方、それが「日々です」を両方から包み込んでいるような、結構これ、凝った作りだなあというふうに思ったわけです。

*時間の厚み−先行作品のエッセンス
 
加藤: すごく技巧達者な作家だなという印象があるんですけど、後で櫂さんがけっこう引用のことを話されるようですが、わたしもちょっとそれに触れて最初の発言を終えようと思います。やっぱり先行するいろいろな作品をふまえている作家だなという印象が強いですね。それは賞賛すべきことだと思っています。

砂粒がわずかに混じるハンバーガーくわえて犬は微笑みかえす

ハンバーガーというところに目がいくんですけれども、私はこの「砂粒がわずかに混じる」あたりをおもしろく読むんですよね。おそらく本歌取りまではいかないんですが、斎藤茂吉の有名な歌を思い出す人、多いんじゃないでしょうか。「海のべの唐津のやどりしばしばも噛みあつる飯の砂のかなしさ」ご飯に砂粒が混じっているという歌なんですけど、『つゆじも』という歌集の歌ですね。佐藤さんの歌はハンバーガーに砂粒が混じっていて、なおかつ茂吉はそれを自分で噛んではかなく思っているんですけど、佐藤さんの歌では犬に食べさせているっていう、このあたり意識しているかどうか関わらず、近代の歌のエッセンスがとりこまれている歌として注目しました。もう一点だけいいますと、

自転車の籠いっぱいの夏野菜はずんでいるね坂を越え越え

これは80年代の雰囲気をたたえた歌で、『サラダ記念日』ですね、「自転車の籠からわんとはみ出して何かうれしいセロリの葉っぱ」、こんな歌ですとか、「夏野菜はずんでいるね」なんかは、自分の歌で申し訳ないんですけど、「荷車に春のたまねぎ弾みつつアメリカを見たいって感じの目だね」っていう、このあたりの明るい80年代の短歌の雰囲気もこの歌集、ひっぱっているんじゃないかと。わりとそういった時間の厚みも感じさせるところ、したたかな作者じゃないかというふうに思いました。
 
藤原: たしかに歌人にとっては一冊目の歌集っていうのは特別の思い入れがあるといいますか、第一句集っていうのもそうだと思うんですけど、そういうところの指摘とか、非常におもしろいですね。またこのあと展開されると思いますが、イメージの提示の問題、あるいはメタファの問題、および先行する作品の引用の問題など、それぞれにご発言を深めていただければと思います。
 それでは俳人の櫂未知子さん、よろしくお願いいたします。

*歌人の生理、俳人の生理
 
櫂: 俳人の櫂未知子です。さきほど加藤さんがお話してるのを聞いてちょっとびっくりしたんですが、第一歌集として十二年間の作品をおさめたということを驚くべきだとおっしゃったんですが、長いんですか?期間として。
 
加藤: いや、十二年というのは全然長くもなくて、普通ぐらいなんですけど、一冊の本に十二年の作品が入るということをまっさらな目で見てみると、これはけっこうすごいことなんではないかと、そんな感じをもちました、ということで。
 
櫂: なるほど。俳句では20年分の作品を第一句集に入れるっていうのはごくあたりまえで、私は例外的に6年分の作品を第一句集に入れましたら、最低15年分ぐらいは作ってから第一冊目を出すべきではないかといわれたんで、ちょっと加藤さんのお話を聞いてあれっと思ったわけですね。
 レジメを見ていただきたいんですが、せっかくですから俳人の目から見た歌集、ということで、春夏秋冬にまずわけてみて、大半の歌を選んであるんですが…だいたいこの、「批評会」というのが俳句ではありえません。句集の出版記念会はときどきございますが、一冊の句集について語り合うということが、まず成立しません。なぜかというと、いい句集だと思ったらそれは誉めますが、なにがしか欠点があるですとか、気に入らない部分があるということを言うこと自体、俳人はしません。黙殺するだけです。ちょっと癇に障るなと思ったらぎゃんぎゃん叩く。それも論理的ではないんです。俳人というのはバカなんです。はっきり申し上げておくと、考えることをやめているのが俳人なのかもしれない。考えているといい句はできません。理屈になりますから。そして五七五に振り回されますので、いい作品ができない。ですからその、性格が悪く、ぱっとものをつかんでくるのがうまい人はいい俳人になります。
歌集を読んでいますとまたちょっと違いまして、非常に緻密な構成力がないとできないなと思ったんですね。たとえばこの『フラジャイル』のなかから季語別に分けてみたというのはですね、佐藤さんは俳句を作っていたことがあると。春というところに、

わたしからいちばん遠い星で泣くひとの涙の桜蘂降る

という歌がございます。レジメのその隣に野村登四郎、私の師系ではおじいさんにあたりますがその方の「さくら蘂降る教師猫背の調べもの」というちょっと字余りの句がございます。「桜蘂降る」という季語があるんですね。「桜蘂」では駄目なんです。駄目というか、あまり認められない。で、この季語をですね、「桜蘂降る」を使いこなしているあたりがただ者ではないなと思いまして、そうだ季語別にしよう、と思ったんです。「桜」というので皆さんおつくりになりますが、「桜蘂降る」というのは普通できません。案外できないです。
 まず俳句でいうところの春の部のところ、ここで「これやこの」というのも出てきますが、これが入れてあるのもおもしろいなと思ったんです。

隣室に他人行儀な沈黙が棲み続けたるこれやこの春

うまいなーと思いましたですね。俳句だったら「これやこの春」でおしまいなんですね。宗祇の「これやこの江戸紫の若なすび」、川端茅舎の「これやこの露の身の屑売り申す」という、この文語なら文語の中で完結している俳句に対し、短歌の自由さといいますか、非常に変わっていますよね。「これやこの」、何が来るんだろうと思ったら春が来ました。これこそかの有名な春であるという、なんか不思議な歌で、短歌のよさというものをですね、ここで感じたわけなんです。

*七七のよさ(マンボウ詩型?)
 
櫂: 「七七」のよさというものをこの歌集から感じたわけなんですが、そうですねたとえば、

さくらばなちるさくらばな石段を数えて降りる君の肩にも

…うらやましいなと思いまして。つまり桜が散ってゆくというさまと、石段を数えて降りる、そしてまた相手がいるという相聞歌ですね、この気分を一句の中で出すというのは俳句の中では不可能なんです。ですから、あげてあります高屋窓秋の、私の好きな句ですが、「ちるさくら海あをければ海へちる」という、これでおしまいにしなければならない。あきらめの詩型、あるいは「マンボウ詩型」と私は呼んでおります。つまりマンボウという魚は途中でブチッと切れたような形の魚であります。俳句もそれに似ているところがあります。魚として完結していない、完結していないところで詩が成立するという、俳句の不思議さというものを時々思うんですが、その点、こういうときに短歌ってうらやましいなと思うんですね。ふたつのことが成立するということ。そして「七七」の効用というもの。
 またたとえば、これも好きな歌なんですが、

春の雷まこと近くに落ちきたり足の裏よりめざめるからだ

うまいなーと。ただですね、なんとなく、なんとなーくですが俳句の残滓があるというか、「春の雷まこと近くに落ち来たり」で一句になるんですねえ。うまくできてるじゃないかと。

*抒情性の違い
 
櫂: ホタルイカ漁の男よ 北風が磨きあげたる瞳を持ちて

澁谷道さんの句では蛍烏賊は季語として機能している、しかしながらなにかその、りえさんの歌では人物に目がいっているわけであって、季語の感覚というものをあえて否定しているような部分がある。なるほどなあということを感じたわけです。生き物の歌で、

蝶の背のピンを抜いてももう二度と飛ばないことはわかってるのに

というやさしい、非常にやわらかな歌で、ちょっと若作りな歌だなと思うんですが、その隣に私の師匠の中原道夫の句がございます。「蝶の胸刺したる針も供養せり」。これは二月八日もしくは十二月八日、地方によって違うんですが、針供養という季語がございます。針供養というのはお裁縫の針を供養するわけですが、私の師匠は蝶々を採集するのが趣味でありまして、針を蝶に刺して殺すわけですが、その針を供養したと詠んでいる。つまりそこには、感情というものを入れる暇がないんです。その違いというもの、抒情性の違いというものを、この佐藤さんの歌と、中原道夫の句から私は感じたわけです。
で、なんか佐藤さん夏が好きみたいで、すごく夏の歌多いですよね。分類してて気づいたんですが何かといえば夏なんですね。若さのギリギリのところにいるせいではないかと私は思うんですが(笑)、「膝をかかえる」という歌、「グッピーの水槽」の歌、「佐川急便」の歌と、「背後には」という歌、こうきてみますと、何かこう若さを謳歌しようとして謳歌しきれていないような、けれども決して暗いわけではないという青春性を感じますが、その隣に鈴木六林男の句があります。「太い細い短い長い脚の夏」という、色気もへったくれもない句なんですが、俳句と短歌の違いをすごく感じるわけなんです。
 レジメ三枚目の、私この歌すごく好きなんですが、非常に抽象的で短歌のよさが生きている、

この世にはあらざるものの名を借りてなぐさめている夏の夕暮れ

という、ああいい歌だなあと。なぜいいか。なめらかだったんです。声に出して読んでみて。

*冷蔵庫短歌
 
櫂: それから、レジメ四枚目の最初の三首をご覧ください。一冊の歌集の中で冷蔵庫が頻出するというのも珍しいわけでありまして、なにか俳句時代のですね、冷蔵庫に対する思い入れが残っているのではないかと思いました。なぜかというと、冷蔵庫は夏の季語であります。最近はそうでもないんですが、以前は非常に頼もしいありがたいものとして冷蔵庫は俳句に詠まれてきました。たとえば波多野爽波のたいへん大間抜けないい句なんですが「真白な大きな電気冷蔵庫」という、実に馬鹿馬鹿しい、昔のへたな広告のような句があります。その隣の寺山修司、「冷蔵庫に冷えゆく愛のトマトかな」と、お前大丈夫かっていうような句ですが、でも何か、冷蔵庫というのは愛されるものなんです、俳人たちに。ところが短歌でこの前調べてみましたら、どちらかというと非常に不気味な、あるいは神秘的な捉え方をされていることが多かったです。塚本邦雄さんですとか、栗木京子さんがこないだ朝日新聞にお出しになっていた歌がそうでした。ところがその「冷蔵庫短歌」の伝統のなかで、このりえさんの歌はそれに抵抗しているようなところがあるんです。なんか明るいんですね。どうしても、歌は歌としていいんだけれども、体質が俳人なのではないかと。私はそう思ったわけなんです。

せつなさに変化してゆくピーナッツバターは冷蔵庫の片隅で

なんていう、普通こういうことはしません。短歌の方のを見ましたらピーナッツバターがとぐろを巻いている、というようなことになってしまうんですね、だいたい。

切り分けたプリンスメロンの半分を冷蔵庫上段のひかりへ

「ひかりへ」というの非常にいいですね。しかもプリンスメロンという安そうなものだというところが分かち合うよさ、若さっていうものがありまして、短歌では非常にめずらしいと私は思いました。

*作品のヴァリエーション
 
櫂: これは季語と関係なしにひいてきたんですが、

一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン

その隣がですね、「ひとりでも生きられるけど掘炬燵」これは昨年五月に発行した『櫂未知子集』という句文集に最近作百句として入れたんですが、自分でなんとなく納得のいかなかった句だったんですね。というのは、「ひとりでも生きられるけど」という措辞自体が、俳句ではここだけで十二音占めてしまう。となると自分が入る隙間がないなって思っていたんです。それで、りえさんのこの歌を見て私はがっかりしたんです。これは短歌で使うべき言葉であった。なぜか。その後の展開ができるからなんですね。私の場合「ひとりでも生きられるけど」までで自分が入る隙間がなく、一生懸命季語をつけて掘炬燵、としたんですが、滑稽になりすぎてあんまりおもしろくないんですね。そういう点で、私は次の句集にこの句を入れるのをやめました。ゆずります、なんてことではないんですが(笑)。その隣ですね、頭韻といいましょうか、ひやしんすの歌が、これ非常に苦労して作ったのかさらさら出来たのか、あとでお聞きしたいんですが、

ひやしんす日暮れひらがな広小路ひとつ食べたいひとひらの雪

よくやったな、という感じでございまして、これだけやるのにどれだけの時間と手間がかかったのかきいてみたい、それでいて苦労のあとがそんなに見えないというよさがあると思います。ただし「ひやしんす日暮れひらがな広小路」だけでも一句になるのではないかという、つい途中で切ってしまう癖が私ありまして。その隣に正木ゆう子さんの思いつきでできたという有名な句があります。「ヒヤシンススイスステルススケルトン」という。こういう気楽な句の作り方もありますということで、あとで、また。
 
藤原: 非常に興味深く、短歌および俳句の詩型の生理の違いと歌人と俳人の違い、そして具体的にレジメにある作品の比較によって展開していく世界の違いについて非常に、緻密に表現していただいておもしろく聞かせていただきました。
 それでは続きまして、詩人の林浩平さんにお願いいたします。

*デジタル的感受性の世界
 
林: わたしは詩の世界といいましょうか、五七五でも五七五七七でもないちょっと違ったところで活動しているんですけども、以前短歌とは縁がありまして、塚本邦雄さんが選をされていた角川短歌の公募短歌館に応募をしたり、というような時期もありました。それから大学院ではわりあい年がいってから勉強したんですけれど、古典の和歌、玉葉、風雅集という十四番目、十七番目の勅撰集があるんですけど、その和歌の世界を研究いたしました。今でも古典和歌には関心があります。そういうご縁があったわけです。
 今回佐藤りえさんの『フラジャイル』、これについていろいろ論じられてきたわけですが、私もじっくり拝見しました。レジメのほうには最初は無責任にこの中で私の好きな、好みの歌を十首、今改めて見ても透明感のある、大気とか空とか、さきほどの櫂さんの言及にもありました「この世にはあらざるものの」といった歌とか、こういうものを好みとして選びました。ただ、問題があると思いますのは、レジメの後半の五首ですね、これは私がたぶん、佐藤りえさんの歌のある種のエッセンスが出ているんじゃないかなと思って選んでみたわけです。たまたま加藤さんが選ばれた秀歌と二首ばかり共通するのがありますけれど、

この夜がこの世の中にあることをわたしに知らせるケトルが鳴るよ

これは、最初に加藤さんがおっしゃっていたように確かにここに自意識の確かさっていうものがあらわれている。櫂さんのお話も大変興味深く伺ったんですけれど、俳句を以前なさっていた、ということで季語的な扱いということで考えれば、この「夜のケトル」というのは季語じゃないんですけど、「夜のケトル」ということばの持つある種の本意、そこを巧みにあらわしているんじゃないかと思うんです。それから三首目の、これもさきほどから何度か言及があったんですけれども、

一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン

これなんかは単純に言って、都市生活の孤独感ていうものが、たいへん端的にあらわれている。ただ、やや類型的かなという感じがするんですけれど、そういう個別の歌に関してはいろいろ個々に感想があるんですが、この『フラジャイル』という歌集全体をずっと通読して感じましたことは、この12年間の作品をまとめて一冊の歌集にされたわけなんですけれど、ここには、現代の短歌が対面している問題といいましょうか、端的に言って、いわゆるサブカルチャー化している、現代短歌。あるいはデジタル的感受性によって作られている現代短歌の世界。そういうものを私はきわめて強く感じたわけです。
 みなさんよくご存知のように、穂村弘さんとか枡野浩一さん、たいへん一般的に広まりまして、授業でも学生達に紹介して、大変ウケるわけです。こういうことは10年前はなかった。俵万智はちょっと別にしてもですね、全然文学に興味のないような学生にも人気があるわけなんですね。そういう状況、それから今日お見えになっているような、東直子さんもいらっしゃる「かばん」グループの活躍とかですね、こういう今現在の、ネット社会、デジタル社会の中で、現代短歌がある種、相当市民権を得ている。そういう世界と『フラジャイル』はかなり関わっていると、こう思ったわけですね。
 ちょうどたまたまなんですけれども、4月19日、月曜日の朝日新聞に、小島ゆかりさんがエッセイを書かれていまして、今の短歌の状況について論及されているんですけれど、ここでネット上の短歌が今大変流通している、という問題について書かれていましてですね。「表現の多くが、具体より抽象に傾き、生身の人格を負わない」と。そういう今のデジタル短歌あるいはサブカル短歌、そういうひとつの傾向を、なかなか端的に指摘しているわけですね。これはネット短歌のある種の匿名性っていうもの、それと大きく関わると思うんですけれど。
 で、そういうふうに改めて考えていくと、『フラジャイル』のこの歌の中にある、さっき私はトーストにマーガリンの歌で都会生活の孤独は感じられるけれどある種の類型性があるといいましたけれど、どうも佐藤さんの歌全体に夜のケトルなら夜のケトルそのものの本意をあらわしているんだけれども、逆にそれから人格性までは伝わってこないんじゃないかと、ここはちょっと考えたほうがいい問題なんじゃないかと、そういう気がしたわけなんです。
 
藤原: 現代の短歌の典型というかたちをお感じになるということで、これもこの後お話として発展するかなと思います。
 それでは四人目になりますが、歌人の佐藤弓生さん、お願いします。

*「見ててあげる」
 
佐藤: 今日のパネリストの方のお名前を拝見して、私の役目はたぶん、著者の友達として話せっていうことなのかなと思いましたので(笑)、普通は著者の人格とテキストっていうのは分けて読むのがもうここ何十年か常識なんですけど、やはり読書というのは個人的体験でもありますので、多少、きょうは個人的な、プライベートな話も交えてお話させていただきます。
 それで、歌集読んで泣いたの初めてなんですよね。別に号泣したわけじゃないんですけど、ちょっとぽろっというふうな感じで。それはどの部分だったかっていうと、

バームクーヘンが丸くない国へ行く きっとけんかの少ない国へ

修辞としてそんなにうまい、っていう感じではないんですけど、ご本人はすごいしっかりした印象のある方でそれがこんな可憐なことを言うなんて(笑)、ってちょっとびっくりしました。なんでほろっとしたのかなって思うと、避けられないもの、改変できない、変更できないものについて語っているからじゃないか。自分の意志で変えられるものっていうのはそんなに切なくないんです。「人間関係の出発点」ってメモを書いておいたんですが、この歌集はわりと個人的なクロニクルとして読めなくもなくて、今より少し若い頃の雰囲気から始まって、ちょっと子供時代の回想みたいなのが入って、それから今の生活っていう、たぶんそういう流れに組替えてあるんじゃないかなと思ったんです。「幻の光」っていう章はたぶん一番小さい頃のことで、個人的なご家庭の事情は知りませんけども、「バームクーヘンが丸くない国」というのがありえない国として書かれています。この比喩自体はあまり強烈じゃなくて、けして成功していないような気がするんですが、それにも関わらずぐっときたのは、バームクーヘンっていうこの、いかにも子供が好きそうなお菓子、甘ったるいお菓子に言及していること、ですね。けんかの少ない国っていうのも、実際今ミクロに考えてもマクロに考えても、家庭虐待から戦争から、そんな「けんかのない」なんていう状態はありえない。ありえないことへの幼い、つたないような願いっていう、そういうふうなことで、歌の善し悪しは別に私はこの章でぐっときました。
たまたま同じ時期に田中槐さんの『退屈な器』っていう歌集を読みまして、こちらも家族関係にたいへん言及されているんですが、「父に似ておりしことさえ憎むべき対象となる少女期の眉」を引用しましたが、これはすごい大人の歌なんですよね。自分に対して分析的で、こんな私であったっていうことを書いてあって、ひとを憎めば自分にも返ってくる、と。『フラジャイル』に描かれた家族っていうのはもう少し、遠くの自分をぼーっと見て、そのまま遠くの自分をそっとしておいてあげようっていう、自分に対するいい意味でのいたわりっていうのが、さっきから軽みとか心地よさっていうお話が出ていましたけれども、 たぶん、「見ててあげよう」っていう感じがそういうやさしい感じにつながっていくのかな、と思ってます。

*価値/無価値に対する視線
 
佐藤: 栞で藤原龍一郎さんが書かれていたことなんですけど、否定形の歌が多い。ためしに開いてみられると、全部じゃないですけどほとんどのページに、〜ざる、とか、ない、とか入ってます。それで「ない」ってことにものすごく注目するひとなのかな、と思いました。

ちょっと見は氷のようで溶けやしないアクリルキューブかなしくはない

なんかこう、アクリルキューブっていう安っぽいもの、ですね。ちょっと個人的な話ですが、今日、昼に時間がないんで立ち食いで丼を食べていて、立ち食いコーナーのコップってアクリルのコップで安っぽくて傷がいっぱいついていて、でもそんなに壊れなくて、けなげにがんばってますよね。ガラスコップなんて逆に壊れるからああいう場所では使えない。傷ついて汚くなりながらがんばっている、そういうものにどうしても目がいっちゃう感じ、価値のないものに価値を見ちゃうような心の動きっていうのが非常に多い。で、逆に、

夜の卓をなにかの虫がいっしんに渡るわれなどあらざるごとく

これがその影を補っているというか、単に壊れやすいものに目を向けるだけだと、「わたしはこんなに壊れやすいものを大事に思っているのよ」っていうところが前面に出てきて、自分の繊細さを顕現するような形になってこなくもないんですが、こういうふうに、自分自身はモノから見たら無意味かもしれないっていう、モノと自分の非対称性みたいなこともよくわかっている。そのへんが子供でありながら、おとな子供っていうか。私、アダルトチルドレンものの小説なんかにぐっときちゃうんですけど、ちょっとそういうアダルトチルドレン的な、ものわかりのよさゆえのかなしみ、みたいなところをこの二首で補いあっているのかな、と思いました。

責めるなかれピクルス抜きのバーガーを目的を持たない脱走を

この「目的を持たない脱走」っていうのがよくわからないんですけど、たとえば小鳥なんかは鳥かごやドアを開けておくと勝手に逃げちゃって、別に逃げようと思って逃げるんでもないんですよね。開いてたから逃げちゃう。そういう意思のないものに対しての、それは無意味ではない、見逃さないでいたいっていうような、やさしさっていうだけでないあるどうしようもない強迫観念みたいなものかもしれないですが、そういうものを感じました。

シナモンのドルチェをすくう銀の匙 おんなのこってためらいがない

確かに、これは加藤治郎さんがおっしゃったように修辞としてはつきすぎかなっていうのもあるんですけど、おもしろいと思ったのは次の歌とセットで、

少女らの言葉は暗号めきてトモダチノトモダチノカレシノカノジョ

これは歌自体は否定形ではないんですが、自分が入っていない感じがします。おんなのこ、とか少女っていうところに自分を入れていない感じがして、自分自身が排除される可能性っていうのをここでも受け入れようとしているような、「わたしは仲間外れ」って言わないことでけなげさを醸し出しているというか、わたしはそういうふうにとりました。

*場面のフレーミング
 
佐藤: あと、今短歌のサブカルチャー化という話もありましたけど、そのへんわたしはなんともわからないんですけども、実に雑多に場面を切り取っているなと思ったので、そのへんから次にひいてます。
みなさんがあげられた歌でわたしがわりと好きなのが、

しぐるるやタイプライター打つ秘書がひそやかに言う「エルは小文字ね」

櫂さんのレジメにある「しぐるゝや駅に西口東口」っていうのは、たぶんほんとうに雨のことしか言ってないんですけど、「タイプライター打つ」っていうと外のどんよりした感じと、部屋のなかでしんねりパチパチ打っている感じと、音がすごい多層的に聞こえてきて、さらに人の台詞が入ってきて、ちょっと探偵事務所っぽいといっていいのか、それはちょっと恣意的な読み方ですけど、場面の切り取りとして私はとってもおもしろいと思いました。このへんはちょっと大人の歌ですよね。

よく冷えた皿に盛られたアンディーブさあれこの世のなべてはかばね

これはちょっと古典的な言い方っていうか、どうなんでしょう、たぶん歌集のなかではいちばんうまい歌っていうんでしょうね。ほんとうに動かしようがないっていいますか。

さかさまに置いたカップの内側のような部分が君にもあるね

比喩が過剰だっていう話もありましたけど、私もこの歌非常に取りにくいんですけど、何か比喩以上の体感みたいな、直感みたいなすごい正直なものがあるなあと思って。これはうまい歌っていうわけではないのかもしれないけど、本人的に「カップの内側」としか言い様のない、他に換えようのない質感があったんでしょうね。これは評価はしにくいんですけど気になる歌です。

*回復への希求−振り切れない針−
 
佐藤: 回復への希求っていうのは自分でも整理できていないんですけど「錆びた」っていう表現がすごい多くて、レジメにあげた以外にも、

蝶番錆びて開かないこの箱は音が出ないともう知っている
世界とは金の野原であったのか夕照の後錆びゆく浜辺


っていうような歌があって。一度完成されたものが傷んでいく。冷蔵庫っていうのは夏が好きだから冷蔵庫がたくさん出てくるのかって思ったんですけど、それ以外に駄目になるものをなんとか押しとどめようとするんですよね、ちょっとでも命を長く長くさせようっていう。これからいいものを作っていくぞっていうんじゃなくて、どっちかっていうとこの歌集は、すでにできた素晴らしいものを、壊れていくのを食い止めたいっていうような、リカバリーしたいっていうようなその方向があって、それは本人の性格っていうより香川ヒサさんが書かれているバブル崩壊後の環境みたいなものが書かせるのかな、っていう気がしました。
 最後に語法や文体の問題、これもいいとか悪いとかいう問題ではなくちょっとメモしたんですけど、

天井のひらたい光幸せになれそうだけどいつもそこまで
しょうがないという時君はある強さ(君そのもの)をのぞかせていた


言いたいことがわかるような気がするんですけど、何かこの言い差しが効果的なのかというとちょっと疑問なんです。それが悪いっていうことではなくて、何か必然なのかもしれないし、そのへんをちょっと他の方にも聞いてみたいんですけど。そこで参考にあげたのは、例えば「「愛恋」と「生死」「わかもの」さわやかなことば炎え立つ 真夏 芝にて」村木道彦さんですが、こういう夏の世界が佐藤りえさんも好きなはずなんですけど、りえさんの歌だとだめなものを一生懸命押しとどめる、既にすばらしいものが永遠にすばらしいっていうことが全然信じられない感じがあって、駄目なものを駄目なままに受け入れる、って考えると私はどうしても千葉聡さんの歌が浮かんで、「死を死と呼び、生を生と呼ぶ どちらとも呼ばないときに電車は走る」この歌だとどちらとも呼ばないときっていう中途半端な、このひとも「〜でない」ってものすごく多い歌人なんですが、極に振れないんですよね。根本的に汚れることがすばらしいとか、美しいことがすばらしいとか、そういう極端な「振れ」っていうものに絶対行かない、極端な振れがウソであるっていう、そういう正直さっていうのはここ十年ぐらいのものなんじゃないでしょうか。それまでは短歌というのはすごい素晴らしいものとか、すごい汚いものとか、とにかくすごいものを詠おうとしていたんじゃないかと思うんですけど。そのへんが私は読んでて切ないんですけど、自分がこういうものを詠みたいかどうかっていうとちょっと、迷ってしまって、そのへんも考えたいと思います。

うつくしく触れられもせず近づいていけばいくほど虹はかすんだ

これは「触れられもせず」っていうのが虹のことなんですかね、この「られ」が私は受動態か可能の「られ」なのか、ちょっとわからなくって、これも曖昧さの効果としてはあんまり効いてないのかなっていう。ところどころそういう歌があって、言いたいことはわかるんだけど惜しいなっていう。今日ひいてきてないんですけれど、歌集の中にはわざと文体を途中で切ったような歌がいっぱいあって、すごく効果的な場合とそうでない場合があって、りえさんの場合はきちんと文法的に通るように作ったほうが私はいい歌なのかなと思っています。
自分の好きだと思う歌を読みますと、

蛍光灯の下に集いて家族とはほくろの多き集団なりき
もの言わず夕餉を囲む数人を家族と呼べばさびしくて湯気


この二首は「幻の光」の中でも、私はこういう歌に弱いなあ、と。

スプーンの内側に咲く花を見てくちにするものすべてが綺麗

歌集のうしろのほうはたぶん現在に近い雰囲気で作っていると思います。今の、今得た幸せを大事にしていって、壊れるかもしれないけれど、錆びるかもしれないけれど、大事にしていきたい。「くちにするもの」っていうのはスプーンで掬う食べ物でもあるし、ふたりで語り合う言葉でもあろうかと思います。そのダブルイメージの美しさとか、すべてがおいしいとか楽しいとかいうんでなくて綺麗だといっている。このおだやかな針の振り切り方っていうのはわたしはとてもうつくしくて、これは地味だけどとても好きな歌です。
とりあえずそんなところで、お願いします。
 
藤原: 歌集の中に多面的なテーマがあるんですが、その中の「幻の光」を中心とする家族の人間関係の問題ですとか、否定形の歌、文体的な部分のご指摘等、あげていただいたと思います。今日のパネリストの方はそれぞれに、短歌、俳句、詩、ご専門のプロパーの書き手ではあるんですが、また別の分野の実作経験もあるという、みなさんそういう方であるわけですね。そういう意味からも複合的な視点からの読みが出たのかなあとも思います。
やっぱり聞いていた感じで、なかなか読みの角度というのがそれぞれ違っていらっしゃるんで、ひとつの問題が浮かび上がるっていう感じではないように私は思ったんですが、たとえば四人の感想としては私は加藤治郎さんのお話になったことが自分でも思っていたことで、それはある種の短歌的感性なのかなと思うんですが。加藤治郎さんから、他の三人のパネリストの方の発言を聞いていただいて、何か質問ですとか、ここをもう少しつっこんで聞いてみたいという部分があるのではないかと思うんですが、いかがでしょうか。

*デジタル社会における書籍の意味、歌集の位置
 
加藤: そうですね、林さんの指摘されたデジタル化とかネット社会という問題、すごく興味深くお聞きしました。それから人格性というところの問題ですね、それが伝わってこないっていうところ、そのあたりちょっと感想を申し上げたいと思います。
この歌集はデジタル化に侵食はされていないと思うんですが、それをすごく意識した歌集であるということは感じるんですよね。それは、さっき冒頭言いましたように、オフィシャルサイトを作ったり、そこに現在進行形の短歌を入れたり、そういったところへの目配りなんですけど、佐藤りえというのはそういった、自分が今置かれているデジタルな環境をよく知り尽くしながら、なおかつこの歌集を出したという意識は、すごく強く伝わってくるんですね。
じゃあ今、デジタルネット社会で本を出す意味があるかというところも、私は強く意思として感じたんですよ。さまざまな歌集をとりまく現象の中で、その真ん中に歌集を置くことの意味ですね。もちろん一般的に言えば、書籍の持つ意味っていうのは認証性であり、正当性であり、保存性だと思うんですが、つまりこれは発行所と著者と発行者が明示された認証性のあるものであり、デジタル社会とのある種の乖離ですよね。それと、正当性というのは、内容はもうこれは改ざんされないもので、これがずっと保存されるというか、原本性が保証される。もちろんそれは『フラジャイル』が持っている特質ではなく書籍の持っている特質なんですけれど、歌集がオフィシャルサイトを含めてネットと地続きなところに置かれているところで、本の持つ原本性のよさが強く認識される…読者にとってですね、それらがセットになって呈示されることで、デジタル社会に対峙するところの、佐藤りえのポジションが明確になっているというふうに、私は捉えました。

*コンセプトで統べられた歌集
 
加藤: それからもうひとつ、林さんのおっしゃった人格性までは伝わってこないっていう問題、これは私が感じた言葉でいうと、冒頭に言ったある静かさっていうか、フラットな感じがそれに近いものだと思うんですよね。この本は、二重三重にそういった生々しさが消去されるような形で編集されているんですね。ひとつは近代の歌人のように、たとえば山形から斎藤茂吉が出てきて、病院につとめて、養子になって、幼い妻と結婚して、というような近代の歌人の持っている、ある生活史的な時間軸っていうのはいっさいわからないように編集されている。そういうことがないときには、作品歴、作歌歴みたいなところで、個人の生活史的なものと代替させる場合があるんですけど、これも厳密にみれば、なんとなく家族のあたりが古い作品かなとわかるんですけど、基本的にどう文体的な変遷を追ったかというところも消去されているんで、そういった二重のところの装置で、生々しさというものが消えていると思います。作者の本質的に、歌集の中で食べ物の歌は多いんですけど、意外に生々しい身体を詠った歌というのはほとんどなかったですよね。たとえば、

内部よりわれを攻略するための基礎体温のまばらな星座

このあたりにちょっと、ある身体の生あったかさみたいなものがわずかに出ているんですけど、これも「まばらな星座」という美意識のほうにすうっと解消させていくんですよね。ですからこの歌集は、『フラジャイル』というコンセプトで作った歌集なんだと、そのコンセプトの中では作歌歴や生活史は消去されていいものだと、そういった主張が伝わってくるのと、気持ち的な佐藤りえのそういう、生々しさに対する嫌悪というのかな、ある種の分別というのはイコール成熟性だと思うんですけど、そういったものを感じました。
藤原: 今のお話の中で出た『フラジャイル』というコンセプトっていうのはまさに加藤さんのご指摘の通り、そういうプロデュース意識が貫かれている歌集であって、それは編集から今日の批評会まで、貫かれている意志だと思います。ただそういう中でフラットかっていうと、私なんかはさほどそうではなくて、肉感的な部分っていうのは感じるし、たとえば佐藤弓生さんが、読んでいてじんわりして泣いた部分もある、みたいなところは、フラットさという部分では解消できないことなのではないかとも感じるのですが。

*マジカルな装置としての短歌
 
林: たいへん難しい問題だなと思うんですけど、今加藤さんのお話をきいて、よくわかるわけですね。たしかに『フラジャイル』っていうのはコンセプトのことに相当戦略的に作られている、それはよくわかるんですけども。
私が歌、短歌というもののポエジーの形式に関して考えていることはですね、ちょっと話が飛ぶんですけども、折口信夫が昔言ったいわゆる「短歌無内容説」っていうのがありますね。ようするに和歌っていうのは、意味内容じゃないんだと。それはやっぱりある種のまじないですね、マジカルな言葉としての、短歌定型の持っている、ある種のポエジーの授与装置としての力。やっぱり僕はそこになにかひとつの、詩の光っていいましょうか、磁力を放てると思うんです。そういうのが僕なんかがめざしているポエジーの世界なんですけど、そっちのほうから見た場合、結局ある種の限定した世界を、佐藤りえさんあたりの持ち味できちっと表して、それなりの今の時代に生活している現代生活者の共感を呼ぶだろうし、まあきれいだろうし、だけども、ポエジーっていうのは無限、無限っていうのは大げさな言い方なんですけど、僕にとっては少なくとも詩はそういうものだと思うんですね。そういう点での、この歌の持つ類型性っていうのが、どうしても線がひかれちゃっている。そういうところだと思うんですけど、ちょっと難しいでしょうか。
 
藤原: 類型性っていうのは先行してあるものに似ていってしまうっていう、そういうことですか。
 
林: 先行っていうよりも、ある場面を表すときに、ある種の普遍性を持つんだけれどもいわゆる一般的であるっていう。「ああ、あるある」っていうのがありますね。それじゃあ詩じゃないんじゃないかなあと。
 
藤原: そこを越えていかないといけないということですね。
 
林: そうですね。
 
藤原: これはやはり、佐藤りえさんひとりだけでなく、ここに出席されている方ほとんどにつきつけられる問題ではないかと思うんですが。櫂未知子さん、短歌もしくは俳句、現代詩等の機能とか生理という問題に当然違いというものはあると思うんですが、林さんが今おっしゃったようなことに関してはどのような感想をお持ちですか。

*定型のなかでもがく
 
櫂: いやあ、今、類型性というものについて、普遍性を持つけれど、あるある、一般的であるっておっしゃったんですよね。すごいなあと思って、さすが詩人はこわいなあと思ったんですが。私自身は歌集なり句集なりに人格性がなくたっていいじゃないかという立場をとってるんですね。その人が何者か、なんにもわからないほうがまだいいわっていう。
またこれは俳句ならではなのかもしれませんが、匿名性とは言わないけれど、ペンネームで作品を作るのが俳句の本来であります。そしてなおかつ、その人がどんな人生を送ってきたか、あるいは職業は何かなど、個人的なことはいっさい問わないのが本来の俳句の世界です。苗字ではお互い呼び合いません。そのひとが社会のなかでどういう生き方をしてきたか、ある家族のなかでどう暮らしてきたかっていうことをまったく抹殺する世界なんです。ですからファーストネームで呼び合う。そういう立場から見るとですね、人格性はなくても全然、いっこうに構わないっていう立場を私はとっております。
なおかつ、類型性の話なんですが、俳句というもの自体が非常に類型的な世界で、よほど才能がないとどんなことを作品にしても、一般的な作品になってしまう。短歌にも通じるかもしれませんが、定型の中でなにか作品を作っていくということ自体が、類型の「型」という字は「かた」ですが、型の中でもがいていくわけですから、どうしてもそっちに行きやすい。しかしながら類型の強みもあるんではないか、っていうことを、この『フラジャイル』の中から感じたわけなんです。
必ずしも類型的とは思いませんが、10歳私が上なんですよね。個人的なことを言ってもしょうがないんですが、なにか私が自分より下の世代に望む歌人像みたいなものがこの歌集に入っているような気がするんです。若い人はきっとこういうことを感じているであろう、ハンバーガーだったらこうだろう、シナモンのドルチェだったらこうだろう。そういう「こうあってほしい」ということをやってくれているという点では、さっき林さんのおっしゃった「類型的」というところはあるかもしれません。

*フラットな感覚
 
藤原: イメージとしての、個性をあえてフラットな感覚の中に解消していくというふうに加藤さんがおっしゃったかなと思うんですが、その点については櫂さんはいかがですか。人格的なものをあえて消していくような、たとえば人生とか、そういうものをあえて滲み出さないように作ってプロデュースされている歌集であり、それがいいという形での指摘だったんですが、かならずしもそうじゃないんじゃないか。佐藤弓生さんのお話をうかがっているとそうでもないんじゃないかという気が、僕はしているんですが、櫂さんはそのへんはどうですか。
 
櫂: 人格性を消すのがいい、というよりは、さっき家族のことを弓生さんがおっしゃっていたんですが、何首かまとめて読んだときにはじめて見えてくるという感じがするんですね。いろんな事情がこうではないかな、って。一首ではなにかわからない部分があるんです。家族詠のところを見たときに特にそう感じたんですが。
人格性をにじみ出させないで、フラットに歌集、もしくは句集でもいいんですが、そういうものを作るのは、逆に非常に困難な道ではないかと私は思っているんです。難しいと思うんです、共感する部分が減ってきますから。その個人の辿ってきた道のりというか、感情というか、この人はきっとこういう人なんだろうということをイメージさせない本の作り方というのは、逆によほどの技術がないと共感よばないと思いますね。ですからその意味では非常に困難な道を歩き始めた歌集ではないかと私は感じたんです。
 
藤原: こんどは佐藤弓生さんに伺いたいんですが、佐藤弓生さんは詩もお書きになっていて、詩集もお出しになっています。詩をプロパーとしてお書きになっている林浩平さんがさきほどおっしゃった、詩の理想形としてのありかたからは少し類型的なほう、あるいは通念性を持った方向へこの歌集がふれているというご意見が出たわけなんですけど、そこに関しては詩、および短歌の実作者としての佐藤さんはどうのように思われますか。
 
佐藤: 端的にいえば詩は短歌よりは一般的には長い、ですよね。詩は一篇かくごとに型を自分で作るっていうんですかね、短歌の場合は型が先にあって、だから感覚的には流し込むっていうのがあって、オートマティックに、考えずに言葉をあてはめているっていうのはだいたいけなし言葉なんですが、型を自分で作るか、型によって作られるか、っていうところが大きく違うんですよね。自由行分け詩だって型がないわけじゃないんですよ。つねに自分で生んでいくか、型によって自分が生んでいくか。で、類型的っておっしゃっているのは、よくわからないんですがたとえば林さんのレジメでいえば、

一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン

が、上の分別くさい言葉と下の分別を裏切るような言葉が、あまりにもプラスとマイナスがかちっとはまりすぎるって、そういう意味でおっしゃったんですかね。それで、

たましいを半分ぐらい切り取ってきみにあげたい 果実のように

「切り取る」と「果実」っていうのもある意味、イメージとしてはなんの齟齬もない。そのへんをおっしゃっているんですよね。そのへんはそうですね、それがいいとか悪いとかはちょっと言えないんですけど、私はこの「たましいを」の歌はこの素直さがとても好きで、「おそろしいほど塗るマーガリン」はおもしろいんですけど、何か足りないっていう気がするんです。おそろしいって言えば言うほど足りない感じがする、これは人工的に作り出された過剰ではないか。言ってることが矛盾しますけど、でも過剰っていうのは自分で作り出すものですよね。
さっき曖昧さっていう話をしたんですけど、たとえば、小池光さんがおっしゃっていたんでしたか、「歌人には人生派と言語派がある」だったかな。「人生派が九割で、言語派が一割」、短歌往来かなにかで読んだ気がするんですが、人生派っていうのは実感派、斎藤茂吉みたいな「味噌汁がうまい」みたいな、そういう形で書いていく。たぶん小池さんのおっしゃった言語派っていうのは、塚本邦雄みたいなのを言ってるのかなと思うんですが、どっちにしても極端に突き詰めていく、自分がこの手法をとると決めたらがーっとそっちに向かっていっちゃうような、昔のひとはたぶんそういう一途さがあったのが、今はその一途さ自体が嘘っぽいという感じがあるんじゃないですかね。完全言語だけでイメージ構築するっていうのももう嘘だし、実感ったって何が実感かわからない、その実人生とか人格にしても、自分に人格なんてあるのか、って私思うんですよ。自分の実生活、私生活を素直に書けばそれが人格かっていうとそうじゃなくて、自分が<私は私である>って思って私が作られているのではない。もうわかってきているじゃないですか、社会あっての自分で、全然違う社会に行けばまた全然違う自分がいるんじゃないか。善し悪しとは別に、そういうふうに曖昧な位置にしかいられないんじゃないかと思うんです。やっぱり歌は時代によって書かされるものだし、さっき千葉聡さんの歌をひきましたけど、すごく素敵なものも、すごく汚いものもなくて。だから、私もそんなに素直に人格があるっていわれると、その素直さにちょっとたじろぐような感じがあります。
 
藤原: いくつか問題が出ているんですが、林さんのご指摘になった『フラジャイル』という歌集の中で描かれている世界に、類型感があるっていうことに関してはどうようにお感じになりますか。
 
佐藤: 類型感、あると思いますよ。それで、あることが、それ自体が善し悪しの判断にはならないんではないでしょうか。林さんにお聞きしますが、類型感について具体的にこのレジメの中で、最初にちょっとお話しされてましたけど、もうちょっと詳しくお聞きしていいですか。

*話者の匿名性の行方
 
林: たしかに、まぎらわしい概念なんですが。どの歌というよりも、佐藤さんの歌の抒情性じたいの類型性っていうことを申し上げたいんですね。どの歌も歌として成立するということは抒情性があると思うんですが、抒情の世界自体が、ある種の類型があるんじゃないか、と。
そして私が考える人格っていうのはそのくらいの意味の人格っていうのじゃなくて、テクスト理論になってくるんですけども、いわゆる話者、スピーカーですね、これは小説でも、詩でも短歌でも、文学テクストはそのテクストを語っている話者がいるわけですよね。その話者の持っている人格というのかな、その存在性みたいなところが、やっぱり佐藤さんの場合は、デジタル短歌にある種共通の、やや匿名的なものを感じるんですね。ただね、それをだからといって否定するってことではないと思うんですね、このへんの問題は。これは近代短歌から現代短歌への革新、六十年代の前衛短歌の革命よりもある意味で大きな亀裂がおこりつつあるんじゃないかなと、僕の大げさな問題意識かもしれませんけども、今言っている話者の無名性化の問題ってあると思うんです。
ただね、たとえば穂村弘さんにたとえばこういう歌がありますね、「サバンナの象のうんこよ聞いてくれ だるいせつないこわいさみしい」と。この人は短歌の持つ<話者の匿名性>をとことん過激に遊んじゃっているわけですね、表象の戯れとして。徹底しているわけですよね。ひょっとしたら僕はこれは、ある種ポエジーになると思うんですよね。デジタル化するっていうのはある種社会の必然でしょうし、そこでどうするかというところで、たぶん佐藤さんなりの考えと戦略とご自身の詩質があってこういう本ができたんだと思いますよ。だからこの一冊はきわめて丁寧に作られたいい歌集だともちろん思うんですけども、あえて言えばやっぱり、物足りないっていうところがあるっていうことですかね。
 
佐藤: そうですね…たぶん、穂村さんのやっている過剰ささえ何か否定しているのかな、って感じがあります、この歌集に。
 
藤原: 今の佐藤さんの最後の発言ですとか、林さんのおっしゃった抒情性自体の類型感っていうのは短歌それ自身の問題ですからね。さきほど櫂さんのおっしゃった類型の型の中でもがいている、というのはみんなが感じていることだと思うんですが、そこをどう考えるか非常におもしろい問題が提出されたところだと思います。
 それでは、会場からご発言をいただきたいと思います。

*旅の歌集
 
冨樫: 冨樫由美子です。秋田県で高校の教師をしています。短歌人同人です、27歳独身です(笑)。私自身は、わたしがこういうところで、こういうふうに生きて、こういうふうに考えていることを本名で刻みつけたい、と思って短歌を作っていますので、『フラジャイル』というこの作品、ほんとうに大好きだけれども、作歌に対する姿勢はかなり違うんだなあと思いました。さきほど類型性ということが話題になっていましたけれども、類型っていうと他の歌に似ているっていう違うイメージが出てきてしまうので、既視感っていう言葉のほうがしっくりくるのかなあ、というふうに思いました。

地下鉄の窓に貼りつくひとひらの桜のように春とはぐれたり
葉桜の下歩みつつ突風のごとき記憶に髪を乱しぬ
わたしからいちばん遠い星で泣くひとの涙の桜蘂降る
さくらばなちるさくらばな石段を数えて降りる君の肩にも


最初の三首は「さくらしべふる」と題した作品群のなかのもので、全体の割合からみて、一連の中に桜を詠んだ歌が四首あるというのは多いといえるのではないでしょうか。桜といえば散り急ぐもの。わたしたちの前を足早に通り過ぎる、季節の旅人です。『フラジャイル』にはまた、旅人の歌がとても多いと思いました。旅行詠ではありません。たましいの旅人の歌です。

たましいがあこがれやまぬ場所なんて地上にあるのだろうか雲よ
タンクバッグに広げた地図の一本の背骨のような道を行くんだ
驚いたように相槌打ってまたひとり砂漠を旅していたね
新しい扉を叩け鶺鴒を空に放して地図だけ持って
よい旅を、と誰もが言ったそれぞれの羽根を重たく鞄につめて
アンドロメダまでかく遠し 寝袋の底にたまった砂の星座よ
海近きホテルの部屋に夜半響く海鳴りまたは方舟の音


 作者にとってこの地上は常駐の地ではありません、わたしたちの誰もがそうであるように。ただ、彼女はいつもそのことを忘れずにいます。だからこそ日々、うしろに残してゆく日常のひとつひとつや、すれ違っていく他の旅人たちをいとおしみ、声をかけあいます。よい旅を、と。この日本語としては少しぎこちないHave a nice tripとかVon voyageの直訳のようなフレーズが、彼女の作品のすべてが抱える魅力の鍵を握っているような気がして、私にはなりません。以上です。

*抒情の類型性?
 
佐藤理江: 佐藤理江と申します、未来短歌会に入っております。林浩平さんに質問なんですが、さきほど抒情性じたいが類型的であるというようなことをおっしゃったと思うんですけれども、考えていて、『フラジャイル』の作品じたいが、たしかに表現の上で人格性であるとか、生活性というようなものがすごく消されているんですけれど、それと類型的であるということはまったく別だと思うんです。表現の上では、です。ちょっと思ったんですけども、抒情性そのものはさきほどありましたように「ああ、あるある」とある一定の感覚をみんなに共通して味わえるような、じわーと広がるようなものが抒情性だと思うんですよ。そうすると、抒情性じたいが類型的でないということはないんじゃないかなあと、そういうふうに考えました。さきほどの「抒情性が類型的である」ということがどういう意味でおっしゃったのかということをお聞きしたくて、質問しました。
 
林: たしかにおっしゃるように抒情性というものがあることによって、われわれはその感情を仲立ちとしてあるものを共有するという作用があると思うんですね。だから、抒情性じたいがある種の類型的なものじゃないかという考え、それはたしかにそうだとも言えると思います。ただし、どうでしょうか、僕が詩の中、ポエジーというもののなかに求める抒情性というのは、そこにとどまるものではない、よくありますね、俳句でいえば「月並み俳句」や、花鳥風詠ってやつですね。あれも抒情性を仲立ちにしてみんなわかっちゃうんですよね。よくわかる、と。月並みだけど、これはある種の共有ができるわけですよね。こういう言い方は古臭いんだけれども、詩というのは無限とか、精神の宇宙とか、永遠とか、そういうものにやっぱり触れたいと思うんですね。そういうものに触れるものがやっぱりポエジーだと思うんですよね。
たとえば詩人で三好達治っていうひとがいますよね。彼のたいへん有名な詩で「雪」っていうのがあって、「太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪降りつむ。 次郎をねむらせ、次郎の屋根に雪降りつむ。」これはもう、かつては教科書なんかで取り上げられたし、美術大学の入試問題に取り上げられたりして、たいへん一般的な詩ですよね。この抒情を類型的じゃないかっていう解釈はあると思うんだけども、僕はそうは思わないんです。この詩はたいへんよくできていて、太郎と次郎、複数化することによってそこに永遠の合わせ鏡ができちゃう。三郎と四郎はもう意味はないわけです。きわめてミニマルなかたちなんだけど、ある種の永遠というか、そういうものに触れた名作なんじゃないかと思うんです。
 
藤原: それでは、今の林さんのお話もからめて、さきほどの林さんのご発言の中でもお名前あがりましたが、穂村弘さん、いかがでしょうか。

*心の温度で焼かれた言葉
 
穂村: はい。抒情性そのものの質が類型的かどうかちょっとわからないんですが、たしかにさきほどどなたかがおっしゃった既視感みたいなものはかなりちりばめられた感じがあって、みなさんおっしゃっているように俳句の経験とか、短歌的な修辞についての知識とか経験とかすごくあるんだけど、それがなんかライセンス販売されるような感じっていうのかな。たとえば、結句にふっと「はつなつ」とかいう着地点があらわれたりすると、それで短歌としてあるパターン化されている例は、よくあると思うんですね、この歌集は。
 そうじゃなくて、うまくその知識とか修辞が有機的にもっと機能しているって感じられる例もたくさんあって、たとえば

食べ終えたお皿持ち去られた後の泣きそうに広いテーブルを見て

これは短歌を知らないひとでも書けそうに感じるんですけど、実はそうじゃなくて、「おさら」と「もちさら」とか、「お皿持ち去ら」で切られて「れたあとの」の句跨りとか、それから口語のひとつのパターンですけど「見て」のて切れですね、結句の。このへんは明らかにそこまでの短歌の資産みたいなものをふまえて作られているんだけど、同時にある有機性みたいなものが生きていると思うんです。「食べ終えたお皿を持ち去られることがなんで泣きそうになるのか」っていう散文的な意識の中では持ち去られなければ困るわけですね、いつまでもそこに皿があっては。でもそこで「泣きそうに広いテーブルを見て」っていう感情があがってくるのは、そこに自分の目の前から消えてしまった人間の気配があって、それが広いテーブルの「広さ」っていうものに結びついて表現されている。「人が消えてしまった」っていう悲しみみたいなコアがあるから、その修辞がすごく有機的で、「はつなつ」、ばしーん、とこっちの意識にのぼらなくて、もっとうまく機能されているように思えるんです。
この歌集の中で僕のいいと思った歌は、佐藤弓生さんがおっしゃっていたようなタイプの歌にやっぱりひかれて、なにかこどものまま世界に入れないような、逆に言うと世界に入れなかったからいつまでも自分の中のある部分がこどものままだ、みたいな感じですね。

青空の天辺にある美しい南京錠の鍵をください
この夜がこの世の中にあることをわたしに知らせるケトルが鳴るよ


とか、そういう、あるきれいなものに手が届かないっていう、そこにすごく心の温度みたいなものがあって、いったん修辞力や知識みたいなものをその温度によって溶かして、もう一回固まった歌、いったんとけて固まった歌にはさっき言ったみたいな「なんでお皿を持ち去られてかなしいんだろう」みたいな矛盾があったりするんだけど、その矛盾が逆にほんとうにその熱によって修辞が溶けて固まったっていう感じを伝えてきて、そうじゃなくて、外からすって、ここはこんな感じだろうって勘で持ってきた歌はそこがうまく伝わってこないっていうのかな。そこの部分に関しては確かに僕もパターン性を感じましたが、コアの「世界にはいれないこどもの心細さ」みたいなものでいったん焼かれた言葉は、非常にいい歌がたくさんあるというふうに思いました。以上です。
 
藤原: ひいていけばいい歌というのはあるわけで、全体について語るのか、あるいは一首一首についてこういう歌がいいとか、なかなか歌集の批評会っていつもそういうところにぶつかってくるんですが。少し、こういう場ではまた、大人の方のご意見も伺いたいと思います(笑)。奥村晃作さん、いかがでしょうか。

*リアリティを感じるか
 
奥村: 大人どころか、伝統短歌界の隠居老人です。なんで今日ここに出てきたかといいますと、何かの縁でいつからかホームページを開いておりまして、今も継続していまして、その結果だと思うんだけれどもね。僕から言いますと、僕は学生の頃から四十年間、結社に属して詠ってきた結社人間ですからね。伝統的短歌界にいるわけですよ。ですから、伝統的短歌界の催しはよく出ますけどね、これはそうじゃない。僕から言うともう一つ別の、こっちのネット系短歌世界だと思っているわけね。なにか縁があって出てきてね。今日は本当に、それぞれ分野の異なるパネリストの方のお話に非常に啓発されました。また、それだけの達者な歌なんだろうと思います。だけれどもですね、僕なんかとにかく、戦争中なんかは地方にいましたから、サツマイモの芋を食べられなくて、葉っぱや蔓を食べて成長してきた人間なんです。そういうものを詠っていた人間なわけなんで、そういう立場からすると、たとえば家族の歌なんかはね、まだそういう生活とか、モノの手ごたえがあるから、僕のところへ届いてくるんですが、一番中心になっておる歌というのがですね、いわゆるコピー化されたものであってね。詠うことは同じなんですよね。魂の鏡だとか、同じなんだけども、ところが僕なんかは、そういう情報化された、デジタル化された第二のモノを通したんじゃ、なかなかリアリティを持ち得ないんだよね。そういうところをむしろ押し出してきている佐藤さんの歌集っていうのは、もっとも先鋭な歌集だと思うんですよ。だから、そういうのに付き合いながら、これからどうなるんだろうと思うんですよ。
 
藤原: こういう場合、歌壇を代表する世代の方たちが来てくださるっていうのは、歌集が持っているひとつのポイントなのではないかと思うのですが。今、奥村さんがおっしゃったことは短歌の世界でいちばん前に出てきている問題ではあるんですよね。そこを何らかの形で読む努力をしていく、表現しているものを受け止めようとするということが必要なんではないかと思います。それでは久々湊盈子さん、お願いいたします。

*希望を失わない
 
久々湊盈子: 私が今日うかがったのは、『フラジャイル』をいただいて、あとがきを読んでいて、高速で降りられなくなっちゃうっていうのを非常に私もやるので、そのことでまずりえさんいいひとだなって思って(笑)、普通あまりあとがきからは読まないんですけども、それをすごく思った、というのがあります。拝見していきますと、キーワードとなる言葉が非常に多くて、一番多いのは「光」でした。17首ありました。それから「虹」とか「星」ですね。それから「空」「海」「夜」「水」「雨」というふうに出てくるんですけど、わりあい光るもの、湿潤なものというのに興味がいってるかなあというふうに読みました。この光るもの、「光」ということだけで考えていきますと、私はこの歌集、そんなにおそろしい歌集ではないな、と、つまり、自分の軌範のなかで読めるところがあって、ある意味わたしぐらいの世代のものにも非常に好感度が高かったっていうのは、そういうこともあったのかなって思いました。たとえば

希望、夢、あるいは光のようなものをたよりに歩くしかないだろう?

ていうような、希望というものを光るものとか、そういうふうに使っていらっしゃるんですね。

よい旅を続けていくさポケットに光る小石がまだふたつある
踏み込めば二度とは戻れないという光の森へはつか行きたし


とか、「冷蔵庫上段の光」もそうなんですけども、「光」というものにこの方が托している希望というもの、そういうものが非常に印象的な歌集でした。

あの星はどんな願いの叶う星天体の死を知らせる光

というのもありまして、でもこのひとはまだ願いが叶うと思っているんだ、まだ未来があって、そういう希望をつないでいる人なんだなあ、というふうな感じがしまして、非常に今、空虚な、荒廃した精神状態の歌をたくさん見ますけれど、そういう中でこの方が希求しているものというのが私世代には信じられるっていうか、希望があるというか、そういうことを思いながら拝見して、きょうはみなさんのお話をうかがいに来たようなわけです。

*ニューウェーブ以後の表現の可能性
 
彦坂美喜子: 今日聞いてまして、穂村さんや、加藤治郎さんや、荻原さんや、ニューウェーブと言われている人たちの、あの時代の表現が何だったのか、どこにあったのか、そういうことを考えていて、佐藤さんの歌集を読んだ時に、穂村さんや加藤さんたちの表現をまねではないですけど、そのまま取り入れて、既視感とか類型とか言われた、そういうものがすごくあることは感じました。それから「はつなつ」でおさめるというような、穂村さんたち以前の短歌の表現もきちんと取り入れてらっしゃる。でもそこで佐藤さんの作品の中に、もう一つ次の、穂村さんたちの後の表現が出てきているんじゃないかなあと、佐藤りえさんの表現が抜けていけるとしたら、どこに抜けていけるのか、そういう発芽みたいなものを何個かこの歌集の作品の中に見つけまして。
さっきあった人格とか、そういうのはたぶんみなさん作品の言葉を読まれて自分にひきつけて、そこから読んでらっしゃるので、作者の人格とか生身のというようなことは、あまり語っても意味がないことのような気がします。生身の人格というふうにわたしたちが考えているのは何か、というふうに追求していくと、それは読者の生身の人格を作品の言葉から辿ってらっしゃるんじゃないかと思います。それが軽いとしたら、それはその言葉と読者の言葉との相性が悪いのかなというふうに思いますけれども、普遍的な言語表現ていうのは私はないというふうに思っていますので。ただその流れのなかで、次の何か、さっきインターネットとか、デジタルとかいわれましたけど、わたしはそういうのは否定していません。そういう環境の中で言葉が生まれてくるのは当然受容されていかなければならないし、受容されていくものだと思っています。言語表現というのはそういうものだと思っています。その例といってはなんですが、どういうところが抜けていくと感じたかというそのうちのひとつ、たとえば、

砂浜に椅子を並べて一対の染色体のように日焼けを
アンドロメダまでかく遠し 寝袋の底にたまった砂の星座よ


とか、あとセロファンの歌がありましたが、そういうような歌の中に、たとえば「一対の染色体のように日焼けを」とは何なのか、「寝袋の底にたまった砂の星座」って何だろうなとか、「最低の恋人たち」、そういう世界をこれから佐藤りえさんは書いていかれるんじゃないかなと。「ゴーダチーズを指でえぐった」っていうようなのを、表現としていいなと思います。
口語の表現ていうのは非常に貧しいと思います、「ごとく」じゃなくて「ような」とか、「はずんでいるね」とか、それから「〜さ」とか、「だって」とか、そこらへんしかないんですね。なにか表現の類型というか、抜きん出ていくためにはそこから抜けないといけない、非常に難しいことですけれど、どこかちょっとした差異だと思うんです。あまり飛びぬけて、じゃなくて「ゴーダチーズを指でえぐった」っていうような、ちょっとした差異のなかに、佐藤りえさんのオリジナルが書かれるんじゃないかなあっていう期待も持っています。
 
藤原: それでは、他ジャンルの方も来てくださっていますので、まず川柳作家のなかはられいこさん、いかがでしょうか。

*かけらの集積
 
なかはら: わたしも佐藤りえさんが俳句をやってらっしゃったってことはずっと前から存じ上げていましたので、櫂さんがどういうことをお話されるかとても興味があったんです。
わたしは川柳を書いていまして、俳句とは同じフォルムでありながら、まったく違うものを書いているわけなんですけれども、はっきり言って俳句のよさっていうものがあまりわかってないような、そういう立場のものが読んだということでお話させていただきたいんですけど、櫂さんが言われていたように、俳句の影響があるな、っていうのは読んでてとても感じたところだったんです。たとえば、

休日の真昼を佐川急便は夏を運びて今盛りらし
銀河からはぐれてみたき夜の秋ちいさく折って飲むオブラート


このへんはほんとうに秋だとか夏だとか、季節感ていうものがものすごく前面に押し出されていて、「夜の秋」っていうのはこういうもんだろう、夏の午後っていうのはこういうもんだろうっていうことがとてもよくあらわれている、イメージの結びやすい作品で、さきほどから既視感だとか、そういうことでいえば、それは俳句でいう季語の利かせ方みたいなものからあらわれてくるんじゃないかなっていう気が少ししました。
それから、作者としての人格とかいう話も出ましたけれども、わたしも川柳書いてて、川柳っていうのはもともと、形式として俳句よりは人格が立ち上がりやすい詩型なんです。その中でも私はあまり主体が見えないって言われ続けていて、それはやっぱり、さっき佐藤弓生さんがおっしゃったように、人格って何、とか、彦坂さんも言われましたけど人格なんていうのは自分の内部にはなにもなくて、外側から取り込んだ他者の集まりっていうか、その成分の割合みたいなものが個性というか、その人の人格を形作っていく、というような捉え方をしているので、人格の立ち上がり方としては、この歌集一冊に最初にある「フラグメンツ」ですね。これが端的にこの、ことばとしてあらわしているんじゃないかなっていう気はしました。だから、人格のかけらがいっぱい集まって『フラジャイル』という歌集としての人格を立ち上げているっていうように思いました。
 
藤原: やっぱりいろいろな視点からのご意見伺うのはおもしろいと思います。俳句をおつくりになっています、浦川聡子さん、お願いします。

*一個の「たましい」
 
浦川: 櫂さんが最初に言われましたように、俳句ではこのような勉強会というものをすることがほとんどないので、一冊の歌集が、どのような視点で読まれてくるんだろうっていうことがとても興味深く、またおもしろくて、ときどきこうした歌集の批評会に参加させていただいております。
 それで、私は他の歌集と比較するというよりは、この『フラジャイル』一冊を読んで、作者の佐藤さんの心理的なことに思いを馳せながら、読ませていただいたんですけれど、一読して、激しい孤独感ていうものを感じました。それは浮遊する都市感覚っていうんでしょうか、たとえば闇に煌々と浮かぶコンビニのような、そういう強いさびしさというのを感じました。そしてさきほど、冷蔵庫というキーワードが集中何首かあがっているとうかがいましたが、冷蔵庫ということを考えたときに、冷蔵庫を開いたときのあのイメージっていうのが、まさにコンビニが闇に浮かんでくるような煌々としたイメージとどこかでつながっているのではないかな、という感じがしました。
『フラジャイル』のタイトルについて、作者があとがきの中で取扱注意という意味合いがあるっていうことを書いてありましたけども、これは作者自身がやはり自分の内面について非常に危うい感覚があるということをわかっていた上で、みずから取扱注意という言葉をタイトルにイメージされたのではないかな、と読みました。これは編年体でもなく、何年に詠まれたっていうのがとくに書かれていないわけなんですけども、冒頭のその、激しい孤独感がだんだん癒されてきて、心理的な充実した歌も散見されるなあという感じもいたしました。私がすごく好きだったのは、

雪つぶていくつも投げてこの海をあふれさせるとあなたは言った

という、こういうほんとに孤独なんですけれども、なにかどこかで人といて安心感を得るような、そういう歌が散見されるように後半なってきて、それは自分としても最初の緊張感を持って読んでいたものがだんだん解放されてきて、少しほっと安堵するような思いを持ちながら読ませていただきました。それから、俳句と少し近いところがあるっていうご指摘、なかはらさんからもありましたが、それもやはり後半のほうで特に「ひやしんす」という、最後の方のところで俳句と共通するなあというイメージが多くなっているような感じがいたしました。たとえば多くの方が言われていたと思うんですけど、

わたしたちはなんて遠くへ来たのだろう四季の水辺に素足をひたし
天の屋根軋む夜ふけて戻らないボートを遠く見送る岸辺


こういうようなのも、言葉の密度がちょっと少ないような感じがいたしまして、こういう景のイメージというのはちょっと俳句的かなというふうに思いました。
最後にとても印象的だったのが、さきほどいろんなキーワードがあるということを言われておりましたけれども、私は「魂」っていう言葉を見つけまして、これだけ集中に魂っていう言葉がある、たとえば句集ですとかそういったものもあんまりないんじゃないかなと思いまして。といっても魂は5つしか表れていないんですけれども、私はやはり佐藤さんにとって「たましい」っていう言葉が非常になにか重い言葉であるのかなあというふうに思いました。それは「こころ」ではなく、彼女にとっては「たましい」なんだなあと、たましいというのは一個であり、その一個ということが、さきほど言った「弧」というのに、非常に通じるのではないかなあというふうに、この歌集読ませていただきました。

*歴史性との断絶、サブカルチャー性
 
藤原: 会場の方からご意見何人かうかがったわけなんですが、パネリストの方にもう一回話を戻したいと思います。林さん、やはり、読み方の問題なんかでかなり林さんとまた違った読み方をしているひとがいると実感されたんじゃないかと思うんですが、そのへんも含めていかがでしょうか。
 
林: そうですね、今みなさんのご意見ご感想うかがっていまして、ほんとうに各人各様みなさんの接し方を感じました。ただもうちょっと、議論を煮詰めて焦点をきちっと持っていけたらなあと思うんです。私はこの佐藤りえさんの歌に関してサブカルチャー的だということを申し上げたんですが、そこらへん理解の共通の土俵をもうちょっとできたら作っておきたいなという気があるんですけれど。
踏み込んだ定義でいいますと実はサブカルチャー的な方法というのは、それまであったすべての文化的なものを、等価で、全部引用可能なデータベースとして見ちゃう。ようするに、それまでのアナログ的な歴史、茂吉がいて誰かがいてっていう、歴史性っていうものを全部横並びである、引用可能である。これはやはり、コンピュータのサンプリングってありますよね。そのロジックからきたもので、音楽なんかはまったくそうですね。サンプリングのシステムが入ってきて音楽のテクスチャーが変わっちゃっているわけです。手触りがね。そういう意味での、佐藤りえさんの持っている文体じたいが、僕はデジタル化しているんじゃないかなって思うわけです。
まずアーティキュレーション、文節化がたいへん細かい。これもきわめてデジタル的な感じがします。たぶん佐藤さんにとってニューウェーブ世代にしても、塚本、寺山にしても、ある意味ですべて勉強されて、データベース化されて、ご本人の意図はともかく、明らかにそういうところから生まれてきた短歌作品と僕は思うわけですね。ですから、『フラジャイル』のテクスチャー自体がやっぱりサブカルチャー的であり、デジタル的であるということを、申し上げているんですが。
あと人格の問題ですね、これも結局、文学論で人格を語るっていう場合は、その作者本人の人格なんてどうでもいいんです。そうじゃなくて、その話者自身の一種の虚構化された人格の問題ですよね。だから、「はたらけどはたらけどなおわが暮らし楽にならざりじつと手を見る」と。石川啄木はたいへんだったなあと。そんな問題は全然ナンセンスですね。少なくとも、今僕が引用した歌の中にあらわれている話者のそのキャラクターなわけですよね。それをあくまでも問題にしていかなければならないっていうことを、提案しておきたいわけなんです。
 
藤原: はい。文体じたいがデジタル化しているということと、話者の問題っていうのは、加藤治郎さんはそういう評論もお書きであって興味のいちばんあるところではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか。

*新しい律の発見−5%の新味
 
加藤: 弓生さんが、短歌というのは流し込んでいくものだという、詩のサイドから見ればそういった感じもあるのかもしれないんですけど、実は違うんですよね。短歌というのは五七五七七の定型のなかで、どう新しい律を作っていくか、というそういったことがあるんですよね。
ちょっと評論も書いたんですが、ずっと短歌がなぜ滅びないかというと、五七五七七の定型という短歌形式はずっと変わらないけれど、その内部でつねに新しいリズムが発見されてきた。たとえば五七五七七というところから、五七五・七七という大きな転換があって、それからまた現代にずっと到っているんですけれども。だから、ひとつの第一歌集にどれだけの負荷を、負荷っていうのは、読者としてのどれだけの期待をかけられるのかっていうのは、そのへんのバランスもあるんですけど、僕はじゅうぶん健闘しているいい歌集だという評価は変わらないんですよね。類型性なんてまったくこわがる必要はなくて、第二歌集、第三歌集があると今度は自己模倣だというふうに言われるわけなんですね、かならず言うひとがいるんです。そうするとだいたい当たります(笑)。しかしそんなことあたりまえのことであって、オリジナリティ一本追求していくなんて、そんなことは無理なんで、ただ僕は95%の財産の上に5%の新しさを付け加えるような、そういった姿勢で充分じゃないかと思っているんですね。で、この歌集にその5%の新味というのはいたるところにあって、僕はその新味を楽しむような読者なんですよ。
たとえば、81ページの「Y」という一連が、わりと成熟した感じのあるりえさんの中では手放しな感じがあっていいと思うんですよ。「Y」っていうのはこれは、イニシャルですかね。わからないんですけど、この歌でいっても、

ガキの頃のあだな・実験でみたでんぷん・夢のことなど話してくれた

なにかその、親しい人と手放しになった瞬間にいろんなことを話してくれるという、これは確かにある、よくあるパターンなんだけども、その中で5%の新味があるんですね。それは「実験でみたでんぷん」、これすごく新鮮だったですね。そういうことで僕は充分いいんじゃないかと。

ぼくたちが歩く速さで暮れる日よあんぱん3個買って帰ろう

これも、「〜の速さで日が暮れる」というのは修辞のひとつのパターンだけど、ここでも「あんぱん3個」っていうところにりえさんが付け加えた新しさ、新味っていうのは充分あるんですね。3個というのがとてもいいんですよね。4個でも歌にならなくて2個でも歌にならなくて、1個だとけんかになりますから(笑)、それで3個というのがよくて、あなたが2個よ、わたしが1個よとも想像するし、ふたりでひとつずつ食べて、もう1個は割って食べるとか、いろんなところが広がっていくわけなんですよ。
で、僕は短歌形式というのは過去の遺産の上に立った5%の新味で十分なんで、ただひとつ望むとすると、新味というのはさっき言った「でんぷん」とか「あんぱん3個」のあたりにもあるんですけど、究極的にはやっぱり、リズムの改革、五七五七七という短歌形式のなかで、どう新しいリズムを見出していくかっていうのが勝負どころで。ずっと来たなかで、80年代に短歌というのは口語という新しいリズムを獲得したんですけど、その後荻原裕幸みたいな、まさにデジタル化された無機的なリズム、視覚からくる表記的な印象からくるリズム、そういったものを見つけたりして、どんな新しいリズムを見つけていくかっていうことが古いようで、なかなか解けない問題で、そこを何か見つけていったらいいんじゃないかというふうに思いました。
ひとつだけ、その、新しいリズムの部分ですね。さっきもちょっと引用した85ページの、

最低の恋人だった僕たちはゴーダチーズを指でえぐった

この歌、うまいと思うのは音(おん)のおもしろさを奥に隠しているんですね。「恋人」の「び」だとか、「だ」とか、「ぼ」とか、「ゴーダ」とか、指でえぐった、の「ぐっ」とかですね、こういった、表面でイメージを見せておきながら裏ではそういった濁音の音で支えているといった二重構造なんかも、僕は緻密だなあというふうで、感心して読んだわけです。
 
藤原: ありがとうございます。林さんから呈示していただいた問題に対して、それぞれ定型の詩を作っている側から思いがあるので、いろんな形で語っていくわけですが、たとえば俳句っていうのはまさに花鳥風月っていうデータベースのかたまりがまずあって、それを背負いながらもがいていく形だとさきほどおっしゃっていたんですが、櫂未知子さんは今、林さんのおっしゃったご意見等を受けて、どうでしょうか。型のある種の難しさっていうところ、あるいはそれが普遍になるときに、さあ、さっきの三好達治の詩で、よかったのかっていうところを僕なんかも思う部分があるんですけど、そのへんいかがですか。

*俳句を裏切る
 
櫂: 『フラジャイル』を読んでいて、りえさんが短歌にうつってよかったんじゃないかなと思ったんですね。なぜかって、楽しそうだったんです(笑)。もちろん俳句も楽しいけれども、さきほどの5%の新味ですか、加藤さんがおっしゃった。俳句では1%の新味を入れただけで天才と言われるのではないかという部分があります。
さきほど藤原さんがおっしゃった季語ですね。季語というのはさんざんみんなで使いまわししまして手垢どころかもう、どうしましょうっていうぐらい、既視感の固まりなわけですが、また既視感が俳句のおもしろさを約束するという部分もございまして、そうしないと共通の言語がなくなります。十七音しかありませんから、好き勝手やってますと空中分解を起こします。この歌集は非常に、さきほどどなたかがおっしゃった、季語があるというところあたり、かなり結構こだわって使ってくださっているんで、そこにもかなりつながってくるんじゃないかなと思うんですね。季語じたいが既視感でみなさん安心する世界ですから。
そういう意味でですね、もう少し、ぼっと離れてもいいんじゃないか。俳句に対する裏切りをこの際してくださるとよいのではないかと、なんか裏切ってないんですよね。まだ仲間だよなっていう感じがございましてですね。経てきた俳句をいちど全部否定してみるのもよいのではないかと、思うんです。無季短歌というものだけで全部やる、と。短歌のよさというのは無季のよさだと思うんですね、実は。なぜかというと頼るものがいない世界でございます。それを私は推奨したいと思ったんです。そうするとまた逆に既視感が消えていくのではないかと思うんですね。俳句を裏切ってほしいです。以上です。
 
藤原: はい。俳句を裏切ってほしいという、ひとつの激励かと思います。佐藤弓生さん、いままでの話をきいていただいて、思うところなどありましたらぜひご発言お願いいたします。

*世界を看取っていくために
 
佐藤: 既視感ていうんですかね、今までにある抒情、知ってる抒情だから地味に見えてしまうのかっていうのはたしかに、思いました。さっき林さんが穂村さんの歌を引用されたのも、なんかこう、過剰な抒情みたいなところに注目されているのかな。そのへんの何か、抒情でいくなら抒情で、なにか突っ走っていくものが欲しいっていう提言なのかな、と今は思ってます。
律の問題は、これまでの蓄積っていう話がありましたけど、どうでしょう、そんなにものすごく消化されているのかな、っていうとちょっと疑問です。65ページの、

なにを思うにもひからびている日々の傘をさかさにして雨を呼ぶ

「なにをおもう/にもひからびて/いるひびの」って読めば読めるんですけど、ちょっとこの上の句は非常に読みづらい。そのへんの律っていうのはもうちょっと検討する余地があるのかなっていうふうに思ってます。
最後に、全然今までの話と違うんですけど、否定形の歌が多いって話したんですけど、いろいろ話をうかがって、巻頭歌が「この夜がこの世の中にある」っていう歌なんですよね。それで、一番最後から二番目の歌、124ページの「星を剥がしてなお余りある」。不思議と最初と最後だけすごいあるあるって言ってて、そういうふうにやっぱりなにか、なにもないところから出発して、なにも持たないところから出発して、でもあくまでも「ある」ほうへ、少しでも歩んでいこうっていう歌集で、自分はそれを見守りたい、見守りたいって感じたのは、たとえば

この雨が洪水になってしまったらどうか君から魚になって
たましいを半分くらい切り取ってきみにあげたい 果実のように


こういったところの、「どうか君から魚になって」っていうのは、もしこの世界が水びたしになったらあなたから逃げていきなさい、私はここでふんばってあなたが無事に行くのを見守りますからっていう、一番最後まで見守りたい、世界を看取りたいっていうすごいやさしい気持ちがある、どんなつらいことがあっても自分はふんばるんだっていう、それも大人の分別の部分ですかね。そのへんのやさしい気持ちとかけなげさとか、最終的に私の中に残っていくのはそういうところなのかなあと、まとまりがないんですけどそういうことで、終えたいと思います。
 
藤原: はい、ありがとうございます。それぞれのパネリストの方のご意見、会場の方のご意見いただいて、当然、結論が出るものではないですし、時間で切るしかないと思いますので、議論に関してはこれで終了とさせていただきます。ご協力いただきましてありがとうございました。